歴史

2011.02.18

歴代No.1は近衛文麿で揺るぎない。

 昨日23:10臥床。本日5:20起床。気温10℃。天気:雨。
 朝、雨がすごいことになってた。しかし、気温が高くて暖かさの恩恵を強く感じた。
 なんか、今週は疲れてるみたいだ。朝、凄く眠い。
 
 
 
 
 
 ・歴代日本総理のワースト1位が決定
 
 
 気持ちはわかるけど、お前ら甘すぎる。
 
 日本には以前『近衛文麿』というスーパーボンクラ宰相がいた事を忘れてはいけない。
 …というか、近衛を知らないから、また、鳩山なんて馬鹿を選んじゃったんだろうけどね。
 
 
 本当は今日は近衛のボンクラぶりを滔々と書いてやろうと思ってたんだけど、時間が無くなったので軽く書きます。
 
 まず、太平洋戦争を始めた首相が誰かと問われれば、東條英機とかなりの人が答えるでしょう。
 確かに宣戦布告し、戦端を開いたのは東條英機ですが、東條英機が首相についた日が何時かと問われて答えられるでしょうか?
 東條英機が首相に付いたのは、昭和16年10月18日です。
 それで、太平洋戦争の開戦日は何時かと言えば、昭和16年の12月8日なのです。
 そうです、実は東條英機が首相についてから、僅か50日足らずで、開戦を迎えるのです。
 
 これを東條英機を首相にして、戦時内閣を組んだんだから当たり前だろって言うようならば、勉強不足も甚だしい。
 一端を挙げれば、戦時内閣で、外相東郷茂徳、蔵相賀屋興宣なんてありえないのです。
 東條内閣は、発足当時の一瞬ではあったが、日米戦回避の為に組閣された内閣なんですが、そこら辺は今日は説明はしません。
 
 
 それでは、近衛がどれだけボンクラであったかを今日は箇条書きで述べます。
 
 
 まずは、第一次近衛内閣の功績。
 
 ・昭和12年6月4日組閣。
 ・就任直後に共産党員や二・二六事件の逮捕者・服役者を"融和"をはかる為として、いきなり大赦しようとする。(元老・西園寺公望の反対でなんとか阻止)
 ・盧溝橋事件 → 支那事変が勃発。(盧溝橋事件の4日後には現地で停戦協定が結ばれたにも関わらず、三個師団の派兵決定、陸軍が求めていない予算まで計上し、拡大させる。その上、この予算の為に国民には増税する)
 ・第二次上海事変 → 上海に二個師団増派を決定。それまで国会で言い続けていた"不拡大方針"を放棄。(支那事変が世界的に日中戦争という認識に変わる)
 ・日独防共協定締結 → 大本営設置。(この翌月に巷では南京大虐殺と呼ばれる、南京攻略戦がおこる)
 ・御前会議で参謀本部による支那事変処理方針がまとめられるが、和平交渉の打ち切りを近衛の独断で決定。(そして「国民政府を相手とせず」と意味不明なことを述べる)
 ・国家総動員法などを公布し、戦時体制に移行。国家主義化の開始。(裏では防共護国団などを使い、各政党本部を襲わせたりする)
 ・日中戦争終結の為に改造内閣で広田弘毅から宇垣一成に外相を変えるも、宇垣が国民政府との話し合いにつくと外務省から日中外交の権利を切り離す。(興亜院の設置。宇垣は「梯子を外された」として、外相辞任)
 ・中国の内部分裂を模索するが、蒋介石にバレて逆に怒りをかう。(日中戦争の早期解決の道が閉ざされる)
 ・昭和14年1月5日内閣総辞職。
 
 
 まず、約二年でこれだけのことをやりました。
 これだけでも凄まじいとしか、私には言いようがありません。
 
 しかし、まだまだ続きます。
 
 
 
 第二次近衛内閣組閣までの功績。
 
 ・首相を辞めるも、次の平沼内閣に閣僚七人を留任させた上、自らも枢密院に転じ、無任所大臣として残る。(マスコミには近衛・平沼合流内閣と揶揄される)
 ・米内内閣の親米路線を牽制する為に"聖戦貫徹議員連盟"という厨二病をおこす。(ソ連共産党やナチスをモデルに新党樹立を目指し、日本革新党・社会大衆党・政友会久原派・政友会鳩山派・民政党を解散させる)
 ・日独伊三国同盟の締結の為、陸軍と結託する。(三国同盟を拒否した米内内閣を潰す為に陸相を辞任させ、後任を出さずに内閣総辞職させる)
 
 
 辞めた後の迷惑のかけ方は、今はポッポが酷いと言われてますが、正直、影響力はそれ以上です。
 
 
 
 第二次近衛内閣の功績。
 
 ・昭和15年7月22日組閣。(元老・西園寺公望は、近衛の首班推薦を断るも大命降下)
 ・外相松岡洋右、陸相東條英機という有名どころが閣僚に登用される。
 ・奇しくもこの年の8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、日本の議会政治の命日にもなった。(2ヶ月後、大政翼賛会の発足を迎える)
 ・経済新体制確立要綱を自らの閣議で決定しておいて、推進者をアカと呼ばわりし、共産主義者として逮捕・迫害をする。(この推進者の中に官僚であった岸信介がいる、コレにより岸は辞職する)
 ・日独伊三国同盟を締結。(しかし、これと日ソ中立条約を材料にアメリカと交渉しようとしていた松岡洋右外相の了解を得ずに、独自にアメリカ外交を始め、松岡に猛反発をくらう)
 ・独ソ戦が始まり「バスに乗り遅れるな」と機運が上がる軍部の邪魔をする松岡が鬱陶しくなり、松岡を解任する為、昭和16年7月18日総辞職。
 
 
 
 第三時近衛内閣の功績。
 
 ・昭和16年7月18日組閣。(松岡を辞めさせる為の総辞職だった為、外相が豊田貞次郎に変わっただけ)
 ・反対論者の松岡が辞めた為、南部仏印進駐を開始。(松岡は南進すれば、必ず日米戦になると言っていた南進反対論者だった)
 ・南部仏印進駐 → 対日石油全面禁止、米国内の日本資産凍結などが行われる。(これは内閣の予想を上回る対日制裁)
 ・御前会議にて「帝国国策遂行要領」を決定。内容は、10月上旬までに日米外交に進展がない場合は、開戦となっている。(昭和天皇は、この決定に反対だったとされている。しかし、表立って反対とは言えない為、明治天皇の歌を詠んで、大臣に再考を促したが効果がなかった)
 ・近衛は、日米首脳会談によって打開をはかるが、もはやルーズベルトは、機は熟したとし、日米首脳会談を拒否する。(この1ヶ月ほど前にルーズベルトとチャーチルは、大西洋で後に日本軍に撃沈される"プリンス・オブ・ウェールズ"上での大西洋憲章に調印済みであり、「後は、アジアの赤児が噛み付いてくるのを待つだけだ」と言うようなことを述べており、日米戦回避はアメリカの出す条件の無条件受け入れ以外にあり得なかった)
 ・昭和16年10月12日、近衛邸「荻外荘」にて、外相、海相、陸相、企画院総裁の五相会談で『私は、戦争には自信がないから、自信がある人がやってくれ』『私は、坊主にでもなりたい』とまた意味不明なことを述べ、内閣を投げ出す。(これは御前会議の決定を蔑ろにする行為であり、陛下絶対、御前会議絶対の陸相東條英機は、ここでブチ切れた)
 ・昭和16年10月18日総辞職。(この後の後継を決める重臣会議を仮病で欠席する。91歳で本当に病気だった清浦奎吾が看護婦付き添いで参加していた為、近衛のバカさ加減がさらに目立つとされる)
 
 
 
 太平洋戦争中の功績。
 
 ・東條に嫌われていた吉田茂に近づき、煽てられてパシリになる。(吉田は戦中も一貫して、英米交渉を模索していたので、一応名のある近衛は使えるのではないかと思っていた節あり)
 ・近衛上奏文を奏上する。(内容は軍部赤化論などで、共産化の脅威を語るには正しかったが、お前が言うな!と今なら突っ込まれる内容)
 ・ソ連脅威論を掲げながら、ソ連を仲介しての和平交渉の話が出てくるとしゃしゃり出てくる。(しかし、近衛のソ連仲介案は『日本の海外の全ての領土の放棄、並びに琉球諸島、小笠原諸島、千島列島の放棄と途方も無い上、将兵を労働力として提供する』というものであった為、スターリンが「アイツには会う価値ないだろ」って言ってくれて本当によかった内容だった)
 
 
 
 戦後の功績。
 
 ・ポツダム宣言受け入れの調印式に政府代表として出席するはずだったが逃げる。(出席してくれと重光外相が頼むと「皇族の誰かを行かせればいい」とほざく始末)
 ・東久邇内閣で、東久邇宮稔彦王と旧友であった為、副首相待遇でまたも無任所大臣として閣僚に名を連ねる。(こんな大変な時だから内務大臣をやるぜ、なんて気負うが当然そんな大事な役職にはつけない。そうなるとあっさりとこの内閣は長続きしないねなどと言い出す)
 ・何を血迷ったか、独断でマッカーサーに会ったりする。(そこでマッカーサーに「叱り」つけられるが、何故か「激励」されたと受け取る)
 ・東久邇内閣の総辞職が決まった直後にまたも独断でマッカーサーに会いに行く。(それでまたマッカーサーに叱られるのだが、またも何を血迷ったか憲法改正を自分に託されたと理解する)
 ・陛下に憲法改正の指揮をとれとマッカーサーから密命を受けたと奏上する。(陛下:え? マッカーサー:え?)
 ・昭和20年11月1日。マッカーサーは、わざわざ憲法改正を近衛に頼んでないと発表するはめになる。(近衛:怒る。 マッカーサー:だってお前犯罪者じゃん……)
 ・同年12月6日。近衛文麿にあっさりと逮捕状が出る。
 ・同年12月16日。出頭期間最終日、青酸カリにて服毒自殺。
 
 
 
 どうです、この凄まじさ!
 
 この輝かしい功績!!
 
 コイツを歴代No.1と言わずして何と言う!!!
 
 
 
 ぽっぽが可愛いとは言わないけど、近衛に比べたらまだまだ小物さ。
 
 まっ、こんな歴史があるのに鳩山を総理に選んだ日本国民は大概な大物かも知れないけどな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 昨晩はアニメを見なかったので、今日は感想なしです。
 
 
 
 
 
 
 
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2011.02.01

趙の趙括。

 昨日20:40臥床。本日5:30起床。気温1℃。天気:晴。
 昨日は体調不良だったので、早く寝た。しかし、今日もまだ全快とは言えない調子の悪さ。
 
 
 
 
 そんなわけで、昨日は早く寝たのでアニメが見れませんでしたので、今日は久しぶりに歴史と今の政治について話します。
 
 今日のお題であげた「趙の趙括」とは、どんな人物か知っている人はいますでしょうか?
 古代中国史に造詣のある方なら聞いたことくらいはあるかと思います。
 彼は、中国戦国時代の趙の武将で、趙の名将「趙奢」の息子です。
 
 趙奢という人物は、趙において以前書いたことのある「廉頗」将軍と同じ時期に趙に仕えており、当時趙国を支えていた人物として、藺相如・廉頗・趙奢を漫画「キングダム」では、趙の三大天なんて呼び方もしてますね。
 事実、この三人が政権の中心にいた時は、強大な秦国も趙国には手が出せなかったと言われています。
 
 そんな名将を父に持って生まれたのが、趙括なわけです。
 その上、趙括は幼少の頃より兵法に通じ、論戦では父の趙奢を論破することもあり、将来を嘱望され育っていきました。
 しかし、父の趙奢は「あれの知っているのは、机上の兵法であり、趙括を将軍にすれば必ず負けるであろう」と自らの息子を評価して、亡くなっていくのでした。
 
 時は経ち、紀元前262年、秦・韓・趙の領土問題が起こり、秦と趙の間で戦端が開かれます。
 これがかの有名な『長平の戦い』と言うものです。
 序盤は、秦は王コツ将軍、趙は老いたりとも名将・廉頗将軍によって一進一退の攻防が繰り広げられます。
 廉頗は遠征軍に対しての基本戦術である持久戦に徹し、2年に渡り、秦軍を防いでいました。
 しかし、これに焦った秦の宰相「范雎」が状況を打開すべく、趙国内にある一つの噂を流しました。
 それが「秦国は、趙の総大将に趙括がなるのを恐れている」というものだったのです。
 
 この秦の宰相「范雎」という人物も恐ろしく優秀な人物なんで語ると長くなるので今日はやめますが、この范雎と秦の大将軍・白起の謀略によって、趙の孝成王は廉頗に変わって、趙括を総大将に任じてしまうのです。
 この時、病床にあった藺相如は病をおして、孝成王を諌めたといい、趙括の母親も趙奢の言に従い、趙括を大将軍にしないで欲しいと嘆願したと言われています。
 しかし、孝成王はその諌めを聞き入れずに、廉頗と入れ替えて、趙括を大将軍に任じてしまいました。
 これで我が意を得たりとなった秦は、王コツを副将にし、猛将白起将軍を総大将にして、交戦体制を整えます。
 
 当時、秦国は范雎の少数精鋭政策により、兵数は少ないが強い軍隊を作り上げていました。
 そんなわけで、実はこの戦いは、大軍を率いている趙軍が城に篭り、数の少ない秦軍が攻めると言う、常識としては有り得ない戦況だったんですね。
 ただ秦軍は少数でも精鋭でものすごく強かったわけで、それを見抜いていた廉頗は、敢えて持久戦を選んでいたわけで、猛将としては当時誰よりも猛将であった廉頗が城に篭っていた時点で、それは察すべきことだったのです。
 しかし、そんなこともわからない新米将軍の趙括は、趙軍の方が兵数が多いのに「何故、攻めないのか」となり、数を頼みに秦軍に攻めこむが、誘い込まれて、糧道を絶たれてしまい、逆に包囲されてしまうのです。
 そして、40万とも言われた大軍であった趙軍が、糧道を絶たれた瞬間から飢えに苦しむのは明白で、すぐに飢えて仲間の肉を食べて凌ぐ有様になったと言われています。
 そんな状況に焦った趙括は、手勢を率いて脱出を試みるが、それを白起が見逃すはずもなく、全身矢に射られてハリネズミのような最後を迎えるのでした。
 
 総大将を失った趙軍は、秦軍に降伏することになるのですが、ここで秦にも趙にも白起にも不幸なことが起こります。
 降伏した趙兵が40万と言われる大兵だった為、秦軍は扱いに困ります。
 秦軍は、前述したとおり少数精鋭である為に捕虜にした趙兵の半分くらいしかいないわけです。
 ということは、兵糧から至る物まで半分しかないわけで、この降伏した40万の兵の処遇に困ってしまうのです。
 もしも、この40万の捕虜が反乱でも起こそうものなら、自分たちの死活問題になりかねないとなり、苦慮の結果、この捕虜40万を生き埋めにしてしまうのです。
 この結果、秦人と趙人は非常に恨みあう結果となり、当時趙国の人質となっていた後の「秦の始皇帝」の父にあたる「子楚(荘襄王)」も殺されかけたりしています。
 
 これは日米のバターン戦に似ていると言えば、似ているのかな。
 本来、責められるべきは、趙の将軍であり、米の将軍でなくてはならず、敵国のそれも一将軍が一番責められるという変な論理が働いてるのが似ています。
 そして、私は最も責められるべきは、こんな敗戦をした将軍を任命した『任命者』であるべきだと思うんですが、その任命者が被害者面するところには酷く憤りを感じます。
 
 
 さて、趙括と言う将軍はこれで大体わかっていただけたかと思います。
 そこで今日は、そこから現在の日本の政治について語ります。
 
 私は、趙括を民主党・菅直人に置き換えるとなかなかいい感じになるのではないかと思いました。
 趙括も民主党も前評判だけは、それはもう立派でした。
 しかし、やらせてみるとどうでしょう?
 素人もいいとこ、評判倒れもいいとこではないでしょうか?
 
 そしてです、これを的確に見切っていた人達もいたことも同じかと思います。
 2009年衆院選前に、日本に孝成王を諌めたように藺相如がいなかったかと問われれば、民主党はダメだと諌めていた国民はちゃんといたと答えられます。
 しかし、それを聞かずに民主党に投票した馬鹿がいただけなのです。
 私は、本当に趙括の母が孝成王に「趙括は無能なので失敗しますが、私は止めましたよ。どうしても趙括を将軍にするというのなら、趙括が敗北しても一族の罪を問わないで下さい」と言ったように「民主党が失敗しても、私に害が及ばないようにお願いします」って嘆願したかったです。
 
 ここで今日の総括として、今日のお話しの登場人物と今の日本の状況を当てはめてみます。
 趙括=民主党と書きました。
 それでは、趙の孝成王は誰かといえば、民主党支持者です。
 廉頗を自民党と例え、藺相如を反民主党支持者と例えるのは持ち上げすぎな気もしませんが、まあ、いいでしょう。
 そして、范雎が誰かといえば、敵性国家と例えられ、それに煽られて金で情報を流すマスコミはその間諜とでもいいましょうか。
 
 さて、これで今日のまとめです。
 趙国が大敗北を喫し、40万人もの兵を失った責任は誰にあるでしょうか?
 確かに趙括は無能でしたし、最前線の現場責任者です。
 しかし、あくまでも彼は任命された一将軍に過ぎないのです。
 しかも、彼は両親からもダメ出しをくらうほどの人物です。
 故に、本当に責任があるのは、彼を召還して総大将に据えた孝成王にあると思うのです。
 しかも、孝成王は数々の諫言を受けているにも関わらず、強行したのです。
 
 わかりますか?
 まあ、馬鹿な民主党支持者はここまで言ってもわからないと思いますが、民主党を政権の座につけたのは誰でもない、お前らだってことを理解して欲しいのです。
 その上、今更被害者面して、政治家はダメだ、ダメだとか言うから始末に終えないのです。
 
 本当の被害者は、お前らじゃない。
 反対していたのに、巻き添えを食っている人達だ!!
 
 
 今日はこの一言を言いたかったのです。
 ちなみにこれを理解しないうちにまた選挙なんかしたって、どうせダメだと思いますよ。
 范雎クラスの政治家が出てくれば、日本も明るくなると思いますけどね。
 
 
 
 余談を一つ。
 今日話した趙括の父、趙奢は馬服君に任じられていました。
 そこから、馬姓が発生し、有名どころでは後の蜀漢の馬超なんかが子孫って言われてます。
 そう言われると趙括の負け方って、馬謖と似てたりもするなぁと感じたりしてます。
 
 
 
 
 
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2010.12.15

栗林忠道大将。

 昨日23:50臥床。本日5:20起床。気温13℃。天気:晴。歩数11711。
 今日は身体がちょっと痛いかな。
 
 
 
 
 今日も余談がちょっと重めなので、先に持ってきます。
 
 
 
 
 
 ・菅首相、硫黄島で遺骨収集作業を視察
 
 
 本当にこんな売国奴が硫黄島に行って欲しくないわ。
 だって、コイツ靖国神社に参拝しないんでしょ。
 硫黄島の英霊に失礼だから、遺骨とかも触らないでもらえますか!!
 
 
 
 今日は硫黄島の話が出てきたので、ちょっとだけ第109師団師団長であり、硫黄島の戦いの指揮をとった「栗林忠道」大将について少し書きましょうかね。
 そこから靖国神社に参拝しない人間が硫黄島に訪れてはいけないと思う理由も述べていこうと思います。
 
 
 近年、栗林大将はクリント・イーストウッドが「硫黄島からの手紙」と言う映画を発表した為、一時期ブームになったせいもあり、日本陸軍の将校の中では知名度が高い人かと思われます。
 ただ惜しむらくは、硫黄島の戦いでの指揮が素晴らしかった為、そこだけを取り上げられることが多いのが惜しまれます。
 栗林大将は戦闘指揮だけでなく、人として非常に優れた方だからです。
 
 
 そんなわけで、今日はその人となりを少し書いていこうと思います。
 
 栗林大将は、長野県松代町の出身で、長野中学校から陸軍士官学校、陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校へと進みます。
 陸軍大学校では、第35期の次席、恩賜の軍刀組であります。
 ちなみに陸大同期では、クズで有名な冨永恭次がいます。
 
 
 それでですね、陸大軍刀組と言えば、将来の大将が約束されているとも言われたエリートなんですが、栗林大将は戦争後半に第109師団長に任命されるまでこんな優秀な方なのにほとんど前線での出番がありませんでした。
 ちなみに栗林大将がどれだけ優秀だったかというと陸士第26期卒の中では最初の連隊長に昇進します。旭川の第7師団、騎兵第7連隊です。ちなみに陸軍では歩兵より騎兵の方が上というのもありました。
 あと、後の事になりますが、陸士第26期で大将になったのは、栗林大将のみです。
 しかも、陸士27期以下には大将はいないので最後の大将と言われています。
 まあ、陸士25期にも大将はいなくて、栗林大将が最年少での大将昇進を遂げています。
 ものすごい余談ですが、その上の陸士24期で大将になったのも一人だけで鈴木宗作大将だけです。鈴木宗作大将は、開戦時マレー戦のマレーの虎、山下奉文大将の参謀長で後にフィリピン戦でも山下大将の下に軍司令官として付き、レイテ島戦で戦死します。戦死昇進です。
 陸士23期も一人だけ大将がいます。小畑英良大将です。下記に出てくると思いますが、サイパン島などを防衛した第31軍司令官です。こちらも戦死昇進です。
 栗林大将も訣別電報の後の昇進なので、戦死昇進みたいなものですけどね。一応、日数的には数日間は存命中に大将になっているはずです。
 
 
 話が逸れ過ぎましたが、そんな将来を嘱望された栗林大将でしたが、太平洋戦争に突入し、東條時代とも言うべき時期になるとその俊才は生かされること無く、留守居部隊の師団長に収まってしまいます。
 これには、二つの大きな要因があったと思われ、一つは栗林大将が陸軍幼年学校卒業でないことと二つ目は日米開戦に批判的であったことだと思われます。
 陸軍士官においては、陸大卒という肩書きと共に幼年学校卒というのもものすごく大事にされ、幼年学校卒閥が当時は陸軍の中核を形成していたのです。
 そんなわけで以前から書いていますが、日本の陸軍士官の中では最優秀とも言える今村均大将も実は中学校卒だったので、陸大を東條英機と同期の上、今村大将が首席なのに一司令官に留まってしまっていたのは、この辺の裏事情もあります。
 ああ、当然のことながら東條英機は幼年学校卒の上、親父も陸軍軍人の二世軍人です。
 長州閥を排除したはずの陸軍が、またこのような派閥人事システムを作るというところに、人の世の世知辛さを感じたりします。
 
 
 さて、映画「硫黄島からの手紙」でも取り上げられていましたが、栗林大将と言えば、非常に筆まめな方として有名です。
 それは元々ジャーナリストを目指していたというのもあるのでしょうが、性格的に文章を書くのが好きだったのでしょう。
 そんな性格からか軍歌の選定・制作にも加わり、「愛馬進軍歌」と「暁に祈る」という非常に当時の人の親しまれた名歌を残しています。
 ちなみに愛馬進軍歌に至っては、アレンジされたものが現在の陸上自衛隊でもよく演奏されます。
 
 そんな文系大将とも言うべき栗林大将は、戦地からも家族にかなり細々とした手紙を送ったりしているのですが、今日はその遺書とも言うべき手紙を一つ取り上げたいと思います。
 その遺書が書かれたのは、昭和19年6月25日。
 同年6月8日に硫黄島に着任とあるので、硫黄島に来てから約2週間後になりますね。
 ちなみにこの時期の戦局はどうなっていたかといいますと、同年6月15日に米軍のサイパン島への大規模上陸作戦が行われ、同月19日には「マリアナの七面鳥撃ち」という名で有名なマリアナ沖海戦が行われています。
 両方で大敗した日本軍は、同月24日にサイパン島の放棄を決定しました。
 余談ですが、大本営が放棄を決定したのは6月24日ですが、米軍が占領を宣言したのは7月9日となっています。
 まあ、ご想像のとおりこの間には、残存兵というか、取り残された兵約5000人によって、ゲリラ戦やバンザイ突撃などが行われたわけです。
 
 
 話を戻して、栗林大将が遺書を送ったのは、その翌日ということです。
 まあ、遺書というのは前線に赴く軍人の嗜み的なものもあったのでしょうが、サイパン島が落ちた今、次は自身が守る硫黄島ということを明確に意識したとも言えると思います。
 
 それでこの時の遺書の内容を紹介します。
 
 
 「……私の墓地はどこでもかまいません。東京にいるならば豪徳寺ぐらいが便利だが、郷里だったら長野など、つごうのよいところならどこでもかまいません。戒名なども、なんでもかまいません。ことに遺骨は帰らぬであろうから、墓地についての問題は後まわしでよいのです。 もし、霊魂があるのならば、おん身はじめ、子どもたちの身辺に宿るのだから、自宅に祭ってくれればじゅうぶんです。それに靖国神社もあるのだから………」
 
 
 はい、ここで出てきましたね。靖国神社。
 私が今日の最初に靖国神社に参拝しない奴が、硫黄島に上陸するなんて非常識にも極まりないと批判するのはここにあります。
 
 日本国は、当時の日本国民に戦死したら靖国神社に祀ると約束して国民を戦地に送り出しているんですよ。
 それは軍人であろうが、民間人であろうが変わりはないのです。
 だから、栗林大将だって別に個々人で墓地を設けなくても、国が靖国神社で祀ってくれると思ってるので、墓地も戒名もどうでもいいと家族に書き送っているのですよ。
 
 わかりますか!
 だから、日本国という国を継承するものは、この約束を果たしていかないといけないのです。
 硫黄島で亡くなった人の多くは、『靖国神社でまた会おう』と言って死んでいるのですから。
 
 
 こんなことを書くと「いや、そんなことを言って死ぬヤツはいない」って必ずって言うほど批判されますが、この硫黄島の戦いで奇跡的に生還した方の中に混成第二旅団第十五部隊、加藤康雄上等兵と言う方がいます。
 加藤氏は、東京の電気器具屋の息子であった為、地下壕内の電気配線などを担当していたので、地下壕内図を手記に記録していた為に後に厚生省にそれを提出して、現在の遺骨収集にも大変役立っている資料を残した方です。
 ちなみに加藤氏の経歴が凄まじいんですが、彼が硫黄島で逃げまわって生き延びたと思ったら大間違いです。
 加藤氏は、一度目は手榴弾で自決をはかり、不発で失敗。二度目は、モルヒネを注射して軍医に手首の静脈をハサミで切ってもらったが生き残り、三度目はピストルの最後の弾で自決しようと自分を撃ったが、肋骨に阻まれ銃弾が肋骨と肺臓の間で止まってしまい死ねずという凄まじさなのです。
 戦後、加藤氏の手首にはハサミで切ってもらった後があり、銃弾は23年後に取り出すという始末。
 さらにさらに火炎放射器で焙られた両足の皮膚はケロイド状になっていたという次第です。
 
 この加藤氏が戦後、一番憤りを感じるのが「天皇陛下万歳!」と言って死ぬのは"嘘だ"と言われることだと述べています。
 加藤氏曰く、「---はじめ斬り込みの時の合い言葉は、加藤というと清正、大石というと内蔵助というものでしたが、しかし、その後全部隊が決死!というと敢闘!という合い言葉になったのです。しかし、後に米軍がこれを知ってしまい、降伏勧告の放送などに決死、敢闘の兵隊さんたちに告げます……と言うようになりました。そうした空気の中、仲間が次々と斬り込んで死ぬ者、自決する者と後が立ちません。しかし、そんな中で誰もが死ぬ時には"天皇陛下万歳!"を口にしないものはありませんでした。私も三度とも祖国に向かってそれを言いました。私の知る限りでは、戦友たちの別離の言葉は『靖国神社でまた会おう』…そして『天皇陛下万歳!』に決まっていました。」…こう語っているのです。
 ちなみに加藤氏の証言は、現在では非常に信ぴょう性の高いものと再評価されていたりします。
 それは硫黄島の戦いの中で「浅田中尉の遺書」という有名な逸話があるんですが、この逸話の元になっている武蔵野菊蔵中尉の手記があるんですが、以前はこちらの方が加藤氏より階級が上位にある為、太平洋戦争史のバイブルとも言える戦史叢書にはこちらが採用されている為に多くの書物にも後に登場しますが、最近の検証において、この武蔵野手記の信ぴょう性が疑われてるんですね。
 その対になっているのが、同じ工兵であった加藤氏の手記であり、検証してみると加藤氏の手記の方が真相に近いと裏付けられてきているのです。
 その加藤氏が、戦友たちの別離の言葉は「靖国神社でまた会おう、天皇陛下万歳であった」と言い残しているのです。
 
 
 はい、これでどうでしょう。
 硫黄島を訪れるものが、靖国神社に参拝しなくていいと思いますか?
 あそこに眠っている多くの英霊は、死んでも国が靖国神社に祀ってくれると思って亡くなっているのですよ。
 それをしない人間が踏み入っていい土地だと思いますか!!
 
 
 
 私は靖国神社に参拝しない人間があの土地に踏み入ることを断々固として許せません。
 
 
 
 
 
 ・仙谷 「日本のマスコミ、何やっても批判…悪い癖だ」「後ろから前から横から批判される」
 
 
 コイツらってすごい馬鹿だと思うじゃん。
 でもさ、菅内閣って学歴だけ取り上げれば、歴代屈指の高学歴内閣なのになんでこんなに馬鹿だと思いますか?
 
 せっかくなんで、今日取り上げた栗林大将がものすごく的確なことを言っているので、あげておきますよ。
 
 
 
 『---世の中には自分のための試験勉強で体を壊し、死んだものはたくさんいるが、作戦を考えすぎて死んだ参謀の話をまだ聞いたことがない。そんなことで戦に勝てるものではないぞ---』(栗林忠道大将)
 
 
 
 これは栗林大将を後に神様のように崇め、止めるのを聞かずに結局、硫黄島まで一緒にお供した藤田中尉を指導する時に言った言葉です。
 多くの部下を抱える将官としての心構えを説いたと言われています。
 
 
 今の民主党に置き換えれば、「自分のために東大に合格するため、必死で勉強したものはいても、国家国民のために必死で勉強、政治をしようとするものはいない」ということかな。
 
 私は、今日この言葉を思い出したことによって、今の内閣の馬鹿さ加減が理解できたような気がします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・厚生年金記録、紙台帳と不一致100万人超
 
 
 だから、こんな組織潰してしまえ!
 こいつらは100年かけても出来ねーよ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 さて、やっとアニメ感想ですよ。
 今日は前置きが長すぎた。
 
 
 
 昨晩は「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の第11話を見る。
 
 
 
Ws000306
 
 
 ココに来て、地味子回とか俺得過ぎる!
 
  
 
 
 
 
Ws000307

Ws000308

Ws000309

Ws000310
 
 
 …と思いきや妹ウゼェーーーーー!!
 
 
 
 
 
 
 
Ws000312
 
 
 「これからはお兄ちゃんって呼んだほうがいい?」
 
 
 しかし、そんなウザ子にも負けずに俺の地味子は素晴らしいな。
 
 
 
 もう多分出てこないけど!!(´Д⊂グスン
 
 
 
 
 
 
 
Ws000313

Ws000314
 
 
 罰ゲームキター!!
 
 
 
 
 
 
 
 
Ws000315
 
 
 くっ、妹のターンが来やがった。
 
 
 
 
 
 
 
 
Ws000316
 
 
 盛り返した!
 黒猫のターン!!
 
 
 
Ws000318

Ws000320
 
 
 黒猫の絵と声、うめー!!
 
 
 
 
Ws000319

Ws000321
 
 
 内容は最低だけど!
 
 ここから絶対に聖戦は始まらねー!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Ws000323

Ws000322

Ws000324
 
 
 ちょwwwww!
 
 ウザデレが……ウザデレが……
 
 
 
 
 
 
Ws000325
 
 
 おっ、お兄ちゃんは騙されねーぞ!!
 
 
 
 
Ws000326
 
 
 なんか画面がボヤけてるぜ……。
 
 
 
 
 
 
 
Ws000327
 
 
 ああ、俺のダメ子が本当にダメ子で良かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Ws000328
 
 
 さて、次回で一応一区切りか。
 
 今のところはなんだかんだと楽しめたので次回も期待してるぜ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
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2010.11.12

戦国武将データファイル 18号。

 昨日23:00臥床。本日5:20起床。気温11℃。天気:晴。歩数11839。
 最近なか卯の和風牛丼が290円になってるんで、結構な割合で朝食に食べてます。
 
 
 
 昨晩は「侵略イカ娘」の第6話を見る。
 
 
Ws000057
 
 
 今週は、前回のせつなさ炸裂と違って、最後まで楽しめたわ。
 イカ娘って数学が出来る設定なのね。
 
 
 
Ws000058
 
 
 今回は栄子との掛け合いがBパート、Cパート共に面白かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 18号。
 
 
 体調を崩してから、頭を使わないアニメ感想ばかりしていたので、また長らく放置してしまった戦国武将データファイル。
 今日は久しぶりに書きます。あまり長くならないようにね!
 
 
 18号の表紙は顕如。巷では、本願寺顕如で知られている人物ですね。
 実は、この号が届いた時には詳しく知らない人物だったので、これを期に調べようかと思っていましたが、未だに出来ていないので今回はパスの方向です。
 
 その他には、榊原康政、池田恒興、前田利長、南部信直と来ていて、この四人は詳しいのですが、今回はパスします。
 
 
 合戦リストは、吉田郡山城の戦いです。
 毛利元就を謀将としてだけ見ていると間違いだとわかる戦いかと思います。
 毛利元就が総合的に凄まじく優秀な人間とわかる戦いと私的には思ってます。
 
 
 名城コレクションは、会津若松城です。
 はい、今日の主題はココです!
 鶴ヶ城とも呼ばれるこの名城は、名城コレクションの名に相応しい城なので取り上げます。
 
 戦国期には、黒川城と呼ばれ、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝と名将たちの手を加えられ、江戸時代に徳川家光の弟にあたる保科正之が入城し、会津松平家の居城として幕末を迎えます。
 普通の城は大体ここで明治を迎えますとなるんですが、この鶴ヶ城は戊辰戦争で会津藩が立て篭もった為、大砲まで撃ち込まれると言う、日本国内の城としては類稀な経験をしています。
 そんな近代戦においても会津藩が一ヶ月にわたり篭城できたということ事態で、この城の名城ぶりがわかると思います。
 そんなわけで私は今まであまりこの名城コレクションが、あまりに戦ったことのない名城ばかり取り上げていたので、こっちは逆に触れてこなかったのですが、今回ばかりは触れずにはいられない城とわかっていただければ幸いです。
 
 ちなみに日本の三名城と言うと「名古屋城」「大坂城」「熊本城」を言うのですが、私の中では認められるのは熊本城だけです。
 名古屋城は籠城戦自体したことがないし、大坂城は二度の落城を経験しています。
 熊本城だけは、明治時代においても一ヶ月の籠城戦を繰り広げ、守り抜いたという経験があるので、これこそが名城の証です。
 
 
 
 さて、会津若松・鶴ヶ城と言うと私の中では、白虎隊を取り上げないと納まらない感じなので、今日はその話を少しします。
 白虎隊と言うのは、戊辰戦争時に会津藩で藩士子弟(16歳から17歳)によって編成された部隊のことを言います。
 会津藩は、西軍(薩長土肥)に目の敵にされた為、江戸城明け渡しが行われても、尚、許されることはなく、遂に藩内に西軍を向かい入れての防衛戦を行わなければ成らなくなります。
 そんなわけで国民皆兵・学徒出陣然り、藩内の男児は皆各部隊へと入隊していくのです。
 
 会津と言う土地は、山河に囲まれた自然の要塞みたいな地域なので、その攻撃ルートも限定されていました。
 南から攻め行った場合、最も標準的なルートは、白河口と言うところです。
 有名な白河の関に通じている道で、東北地方及び北海道を"白河以北"と言ったり、甲子園の優勝旗がなかなかここを超えられなくて昭和の時代には、毎年夏に甲子園で東北・北海道勢が活躍すると「今年こそ、深紅の大優勝旗が白河の関を超えるか!?」なんて言われたものです。
 余談ですが、甲子園の深紅の大優勝旗が白河の関を初めて超えたのは、2004年の駒大苫小牧高校が優勝した時です。白河の関どころか津軽海峡も超えちゃったってことです。更に余談ですが、前年の2003年には現在の日本ハムファイターズのダルビッシュ有、要する東北高等学校が準優勝しています。翌年の2005年は、現在の楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手が優勝投手となり、駒大苫小牧の二連覇となっています。
 
 
 話を戻して、会津戦争の続きです。
 山河に囲まれた会津に攻め込む為には、考えられる道が7本あったと言われています。
 最も重要だったのが、先程挙げた白河口(現在の国道294号線)と日光口(現在の国道121号線)、次が二本松口(現在の国道49号線)です。
 会津側は、この三道に主力を配置して防備を固めていましたが、西軍は虚を突き、一番道の険しいと言われていた"母成峠"を超えるルートから攻めいったのです。
 この時、唯一この動きに気がついていた旧幕軍の伝習隊(隊長、大鳥圭介・参謀、土方歳三)がいたのですが、いかんせん兵力が少なく、しかも伝習隊は江戸育ちを中心に編成された部隊であり、会津の山奥は不慣れの上、会津藩兵の方が先に後退するという事態に陥り(2日連続で会津藩兵のが先に後退している為、殿をすることになった当時最高クラスの火器を有していた伝習隊はここで壊滅的な打撃を受けてしまいます)、母成峠の戦いは会津側の敗退で終わるのです。
 母成峠越えは、道は険しいが抜いてしまえば会津若松城下まで50キロ程度しか無く、西軍は母成峠の戦いの二日後の朝には、会津若松城下へ突入する事態となるのです。
 そして、この時に有名な白虎隊と言うのが登場します。
 母成峠を抜かれた会津藩は、予備兵力として城下においてあった白虎隊以下、女性で編成された娘子隊まで繰り出して防戦に努めますが、最重要である日橋川にかかる十六橋が頑丈な石桁橋だったのが逆に災いして落として防ぐことが叶わず、勢いに乗ってやってくる西軍を城下に入れまいと戸ノ口原で迎え撃ちますが、少年兵隊や女性隊が板垣退助・伊地知正治率いる土佐・薩摩藩兵にかなう筈もなく、鎧袖一触とはこのようなことを言うもので、敗れた白虎隊士は城下に戻ることも能わず、負傷者を抱えてとにかく城を確認しようと郊外の飯盛山に逃れるのです。
 そして、ここで有名な白虎隊士の悲劇が起こります。
 飯盛山に逃れてきた白虎隊士中二番隊の隊員たちは、城の様子を確認しようと城を眺めると城が燃えているように見え、落城したと誤認してしまいこの場所に辿り着いた総勢20人が皆自刃してしまうのです。
 実際は、まだ城は落城してはいなくて、隊士たちが見たのは市中の火災であったのですが…。
 ちなみに何故このようなことがわかったのかというと自刃した20人の中の1人、飯沼貞吉が一命を取り留めた為にこの白虎隊伝説の詳細が世に残ることになったのです。
 
 
 この白虎隊に関しては、詳細を知りたい方がいらっしゃれば、1986年に日本テレビで放送された「白虎隊」を視聴することをオススメします。
 このドラマは超面白いです。こんなの地上波でやってたのかよ!?って思うくらいです。
 最後の60分は泣きっぱなし間違い無しです!
 
 …ただ、その泣きっぱなしに行くまでに4時間くらいかかります!!
 なんせ全部で5時間くらいあるドラマなので。
 
 ちなみにこの白虎隊のドラマで、新選組の沖田総司をやっているのが中川勝彦さんって方で、中川翔子さんのお父さんにあたったりします。
 
 白虎隊以外にもこのシリーズには、「忠臣蔵」「奇兵隊」「田原坂」「五稜郭」とありますが、ココマデならどれを見ても外れはないくらい面白いです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・【政治】「世界世論への発信なさすぎる」鳩山氏 菅外交を批判?それとも自己反省?
 
 
Datsuzeisori
 
 
 テレ朝が米倉ドラマで「脱税するやつは日本の道路歩くな 日本の空気も吸うな」って言わせてるんですけど、このドラマに鳩山さんの出番はないのですか?
 
 
00000199001
 
 
 是非、ナサケの女に登場させて欲しいーの。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・教員5100人、講習未受講で免許失効の可能性
 
 
 コレって普通に「輿石当選! ヨッシャー!! 教員免許更新制なんて無くなるぜ、ウフフ」って言ってたのが、国会がねじれたりしたから民主党も通すに通せなくって、反対してた日教組教員が焦ってるだけじゃないの?
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・【速報】イチロー衝撃発言!「もうカレーは食べてない」
 
 
2010111140
 
 
2010111138
 
 
 さすがにこれとこれを一緒にされたらブチキレるわ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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2010.10.19

戦国武将データファイル 17号。

 昨日23:30臥床。本日5:20起床。気温19℃。天気:曇。歩数11509。
 めっきりと涼しくなって来ました。今日から一枚服を上に羽織ることにして本当によかったと思ってます。
 
 チャリ熱が悪化してロードタイプのチャリが本当に欲しくなっています。
 円高のせい?か、今だと2万円代とかでも買えそうなのです。
 でも、超我慢してます。
 今週末は、今までの最長を目指そうとも思ってるので、ボトルゲージも付けるかどうか悩んでます。
 
 
 
 
Busyo_17
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 17号。
 
 
 すぐ停滞する戦国チーム。
 現世で仙谷と名乗るキチガイが無双してるから、戦国って言う語彙に触れたくないんだよ!とミサカはミサカは言い訳などしてみたり。
 
 そう言えば、私は「とあるシリーズ」では、アクセラレータとラストオーダーが好きなので、禁書一期が21話で止まってる為、禁書二期をまだ見れないと告白してみたり。
 
 
 よし、グダグダ言ってないで今日の本題を書きましょう。
 
 
 今号の表紙は北条早雲ですね。
 
 昔は下克上の代表として、一介の浪人から大名になった北条早雲。一介の商人から大名になった斎藤道三。一介の農民から大名になった豊臣秀吉などと一緒に典型的な下克上人物として扱われてきましたが、最近では、北条早雲は、備前伊勢家という将軍に仕えるクラスの名家の出身であったことが研究の結果導き出されています。
 そう言えば、斎藤道三も最近の研究では、親子二代にわたる国盗り物語であったと言われるようになってますね。
 アレ? 秀吉は大丈夫か!? 今後の研究が待たれることです。
 
 そんなわけで、北条早雲は足利将軍家の特命で駿府に下向し、伊豆に討ちいっているのであり、関東公方と室町公方の争いであり、将軍の跡目争いだったりもしたわけです。
 こう検証されると北条早雲の今まで語られてきた下克上物語ってなんだったの?とはなりますが、この辺が歴史の難しいところであり、面白いところでもあるので、その辺は柔軟に考えた方が楽しめます。
 
 
 ここでちょっと話は脱線しますが、やはりこう、歴史においての夢物語というのは大事だと思うのですよ。
 特に、幼少時の教育には、偉人伝は欠かせないと思っています。
 子供にはね、夢を与えるというか、こんな凄い人もいたんだーって思わせないと人のやる気って出ないんですよ。
 だから、またここ最近の傾向の教育批判になりますが、自虐教育なんてしたら絶対にダメなのです。
 自虐教育を受けた今の若者の心がそれによってどれだけねじ曲がったかと思うとゾッとしますよ。
 もしこの文を読んでくださってる方にお子さんがいましたら、絶対に自虐教育は否定して下さい。
 これは本当に何も生み出さないし、子供を不幸にします。
 ちなみに韓国みたいに自国マンセー教育をしろってわけじゃないですよ。
 
 
 さて、話を戻して北条早雲ですが、後北条氏5代に渡って続く、民政家魂は確かにこの人から始まってるわけで、統治はとても素晴らしいです。
 その上、兵を率いらせても優秀で、数々の戦歴をあげています。
 ちなみに北条早雲は、今川軍を率いることもあり、遠江・三河などにも進出したりしていて、その時に戦った松平長親は徳川家康の高祖父にあたる人物です。
 この時は、松平長親が勝っているので、もし負けていたら、徳川家康はいなかったかも知れませんね。
 
 
 
 
 
 合戦リストは摺上原の戦いです。
 伊達政宗、宿敵蘆名氏に対する乾坤一擲の戦いですね。
 政治背景として、秀吉の天下統一が直前に迫ったいたので、政宗としてはここは是が非でも勝って、秀吉に備えようと戦い、勝ったのですが、結局のところ遅きに失したということになってしまいました。
 
 
 
 
 名城リストは高松城です。
 見栄えはいいと思いますが、合戦を経験していない城なので、まあ、そんなところです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・【尖閣問題】 仙谷官房長官が「訴追したらAPECが吹っ飛ぶ」「属国化は今に始まったことじゃない」と釈放決定後に話す
 
 
 仙谷無双すぎ。
 
 約一ヶ月前の組閣の翌日の日記に私は『本当の地獄はこれからだ』と言いましたが、予想以上の出来ですね。
 
 
 仙谷だけじゃないぞ、民主党議員、民主党に入れた有権者もみんな同罪だからな。
 少しでもマトモな心があるなら、民主党議員は今すぐにでも民主党から離党しろ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・【シャープ】電子書籍端末ガラパゴス、コピーは1回20文字まで
 
 


3ce19cce
 
 
 この画像を作った人のセンスに脱帽。
 
 日本の電気製品屋は確実に明後日方向を向いている。
 だから、日本でも世界でも徐々に売れなくなってんだよ。
 いい加減、誰か教えてやれよ。
 中にいる若いヤツとかならわかってるのかも知れないけど、どうせ老害に邪魔されてんじゃねーの?
 
 30年前にアメリカ人に「日本人は優秀なヘリを作れても使い方を知らない」と言われている時代から日本人は技術の使い方がまるっきりわかってない。
 
 
 
 
 
 
 
 ・今度から「中国産」→「外国産」になるそうです。原料産地で「外国産」表記を容認
 
 
 中国狙い撃ちwwwwww
 
 
 消費者庁とはなんだっただろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 ・防衛相緊急帰国「忸怩たる思いだ。わかるか」
 
 
 先日、新聞の投書欄でこの事に対して「この大事な時期に会議に出席しないで帰ってくるのはいかがなものか? 野党も批判などせずに協力すれば…」と投書していた北海道土民がいたんですが、新聞に投書するくらいなら最低限のことくらい学んでからしてこいよと言いたい。
 
 なんでこんなことになってるかといえば、>>民主党は野党時代、閣僚の国会審議欠席を批判した経緯がある。からなんだよ!!
 コイツらはもうやること成すこと壮大なブーメラン政党になってる為、所々でこういう事が起きてるわけ。
 
 こんな認識で新聞に偉そうに投書なんかするから、北海道は犯罪者とクルクルパーを国会に何人も送り込むことになってんだろうが!!
 そっから、きっちりと認識しろや。
 
 
 
 
 
 
 
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2010.10.06

戦国武将データファイル 16号。

 昨日23:40臥床。本日5:20起床。気温18℃。天気:曇。歩数13890。
 昨日は寝る直前にストパン2の第二話を見てしまったのが失敗だった。
 みんなが集合する、超胸熱のシーンだけ見ようと思ってたのに、結局第一話の芳佳発進まで見てしまい、寝るのが遅くなった。
 
 
 
 
 
Busyo_16
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 16号。
 
 
 今号の表紙は、山中幸盛です。
 通称鹿之助で有名です。今は、鹿介って正しい表記になったみたいですけど、昔はよく鹿之助って書かれてました。
 久しぶりに表紙の人物で書きたい人が来たって感じです。
 
 そんなわけで、今日は山中幸盛について、ちょっと書きます。
 山中幸盛は、山陰の雄、尼子氏の家臣です。
 元々、山中氏自体が尼子氏の傍系にあたるのはずなので、尼子氏内での山中氏の地位は高いはずなんですが、この辺が今だにボヤッとしていて、はっきりしていません。
 ただ幸盛のお爺さんに当たる、山中勝重が主君、尼子経久(中国の三大謀将の一人・十一ヶ国太守)が京極家を追われて流浪し、居城であった月山富田城を奪取する際に活躍したと言われ、この後には尼子氏内での山中氏の地位は確立されていたとは言われています。
 
 父親の山中満幸は若くして亡くなり、兄の山中幸高は病弱だった為に、次男の幸盛が家督を相続することによって、山中幸盛は歴史の舞台にあがります。
 その後は、生涯をかけて、毛利氏と戦っていくことになります。
 二度の月山富田城の戦いで、主君尼子義久が毛利氏に降伏するが、幸盛は勝久を担ぎ上げ、各地を転戦し、尼子氏再興のために尽力します。
 この辺の御家再興物語が、忠臣蔵然り、江戸時代の武士や庶民にウケた為、七難八苦の逸話は講談などに使われ、明治から昭和初期には教科書に載るまでになります。
 
 尼子氏滅亡後に信長を頼ったまでは良かったんですけどね、信長の対応が尼子氏に対してあまりに冷たかったというか、秀吉は擁護したみたいに書かれてますが、まあ、五十歩百歩ってところで、尼子勝久・山中幸盛は毛利に対しての捨て駒扱いされてしまいます。
 まあ、幸盛たちの相手も悪くてね、山陰方面といえば、毛利家随一の武将である吉川元春なわけですよ。
 逆に言えば、この76戦64勝無敗とも言われる猛将相手によく頑張ったとも言えますけどね。
 
 幸盛の生涯は、上月城の戦いで捉えられて、芸州への護送中に謀殺されることで閉じます。
 これは、このまま幸盛を生かしておけば、また逃げ出して、尼子氏再興のために毛利氏に歯向かってくるだろうことを見越した吉川元春が行ったとされています。
 謀殺された場所は、現在の岡山県高梁市の阿井の渡しと言われ、この付近に首塚や胴塚があります。
 墓所は、鳥取県鹿野町の幸盛寺です。
 まあ、なんでここにあるかといえば、幸盛と一緒に尼子氏再興のために尽力した亀井茲矩が、生き残って後に江戸時代に因幡鹿野藩藩主になった為にここの町にあるのです。
 
 
 最後になりますが、山中幸盛の子供にあたる山中幸元は、後に武士を捨て、商人となり、鴻池財閥の始祖となる人物です。
 そんなわけで、酒屋から金融屋になった鴻池財閥ですが、幕末期には資産は銀五万貫に達し「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とも言われましたが、出自の関係から鴻池財閥は、江戸時代から明治維新の際も毛利家(長州藩)には、財政支援・寄付金等は一切しなかったと言われています。
 
 
 
 
 合戦リストは、御館の乱。
 あんまり詳しくないのですが、結構大変だったみたいですね。
 
 
 
 
 名城コレクションは、広島城。
 個人的感傷のある城ではありますが、戦国の城郭としての魅力はありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・【政治】仙谷長官「自民党は中国とのパイプを数多く持っていたのだろ?それにしては日中関係がこのありさまとは・・・」
 
 
 コイツは毎日自分の馬鹿さ加減を壮大に発表してるけど、いつ辞めんだよ?
 
 …というか、記者とかはもっと突っ込んでやれよ。
 
 ツッコミが悪すぎて、ボケが全然伝わってないじゃないか!
 
 
 
 
 
 
 ・フジテレビが本性現す、すぽるとで”韓日戦”と表記
 
 
 正直、もうフジなんて一本も見てる番組無いからいつ潰れてもいいわ。
 
 大人しくホリエモンに買収されちゃってた方が、マトモだったんじゃね?
 
 
 
 
 
 
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2010.09.30

戦国武将データファイル 15号。

 昨日20:30臥床。本日5:00起床。気温20℃。天気:雨。歩数15305。
 結局、体調を崩す。いろいろな怒りのせいか、熱が上がり帰宅後計ったら37.8℃あった。
 早めに寝るが、鼻と喉の痛みで二回ほど起きる。本日も体調不良なり。
 
 
 
Busyo_15
 
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 15号。
 
 
 時事は身体にあんまりよくないということで、今日は歴史の方で行きます。
 
 表紙は山本勘助。本当にどう触れていいかわからない。個人的には、何故、大河ドラマにしちゃったのかもわからない人です。
 
 そんなわけで、今回も武将名鑑から取り上げます。
 今号は、佐々成政、伊達輝宗、尼子晴久、田中吉政です。
 
 
 この中ですと田中吉政かなって感じです。
 田中吉政は、有名でもなく無名でもないという微妙な位置にいる武将かと思います。
 あまり何をやった人?と問われて答えられる人も少ないだろうし、人生の派手さもないので、人気も微妙かなと思います。
 ただ、私は個人的には好きな武将です。
 なんというか、信頼の置ける感じなのです。
 
 出自は、近江宮部村と言われ、宮部継潤に仕えたことにより、その後、豊臣秀吉に見出されることになり、信頼されて養子の秀次の宿老となります。
 当時、秀次と言えば、近江八幡に城を構え、秀吉の後継者としてすき放題やっていた時期であり、そこの宿老に付けられるということは、どれだけ秀吉が吉政を買っていたかわかると思います。
 ちなみに宮部継潤もマイナーですが、秀吉に信頼され、重用されていて、鳥取では、あの毛利家で無敗の男と呼ばれた"吉川元春"と激戦を繰り広げたりして、優秀な人物です。
 ゲーム会社"チョン栄"では、元主君の宮部継潤と共に評価がイマイチなのは、さすがチョン栄と呼ばれるだけに、日本史を知らないと言えます。
 
 秀頼が生まれ、秀次が疎まれて自害さられると木村重滋や前野親子などと多くの家臣が切腹を賜ったが、吉政は宿老にも関わらず許されました。
 同じような立場であったものには、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊などがいます。
 まあ、名前だけ見ると許された方が有名どころが多いので当然なのかな?とも考えがちですが、木村重滋は当時山城淀18万石の大名であり、前野長康も11万石を治める大名で、しかも秀吉に仕えた最古参とも言える人物なので、それを殺していることから、秀吉の狂気はこの時既に止められないところまで来ていたということでしょうかね。
 ちなみに前野長康と蜂須賀小六は、秀吉の出世物語には必ず出てくる「墨俣一夜城」を手伝った人物と言われ、お互い義兄弟の契りを結んでいたと言われています。
 
 
 吉政は、その後も累進を続け、岡崎10万石の領主として、関ヶ原を迎えます。
 関ヶ原の戦いでは、吉政を含め、先程出てきた中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊は皆、東軍である家康に味方しています。
 
 ここでですね、私の一つの見解としては、この四人はこの当時全て、家康の旧領を治めていると言うことを書いておきたいと思います。
 田中吉政が三河岡崎10万石。中村一氏が駿河駿府14万石。堀尾吉晴は隠居していて息子の忠氏が遠江浜松12万石。山内一豊が遠江掛川5万石です。
 秀吉は、信頼できる腹心を家康の旧領に入れたつもりでしょうが、これは本当に甘かったとしか言えません。
 対家康を想定していて、家康の旧領の民兵を使えると考えるのはあきらかに無理があります。
 確かに秀吉は、兵農分離で農民と武士とを分けましたが、農民の協力なくして兵を動かすのは凄まじく大変です。
 その辺を考えるとこの東海地域を治めていた武将たちが、雪崩うって家康側へ行ったのは仕方が無いと言えるかと思うのです。
 
 
 吉政は、関ヶ原後に筑後柳川32万石を与えられ国持大名となります。
 現在の柳川市は、この吉政と後に入る「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と秀吉に言われた"立花宗茂"によって基礎が作られました。
 
 
 
 
 合戦リストは厳島の戦いです。
 厳島には行ったことがあるのですが、あの狭い町に陶晴賢軍15000人が収まっていたのが驚きです。
 なんか、新しい検証を待ちます。
 
 
 
 
 名城コレクションは米沢城です。
 伊達、上杉と有名どころが居城としてますね。
 生まれ故郷ということもあってか、政宗も秀吉に奪われてから結構最後の方まで取り返すのに拘ってます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ・照英がバニーガールの格好をしている画像をください
 
 
 これは反則だー!
 
 照英フォルダスゴすぎ。
 
 
 
 
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2010.09.28

戦国武将データファイル 14号。

 昨日22:30臥床。本日5:30起床。気温20℃。天気:雨。歩数13435。
 アレルギーからくる鼻炎で鼻水が止まらないのかと思っていたら、どうやら体調不良みたいだ。
 風邪をひいたのだろうか?
 
 
 
 
 
Busyo_14
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 14号。
 
 
 度々止まる戦国武将データファイル。
 14号は、蒲生氏郷が表紙です。氏郷はあまり興味がないので、詳しくありません。
 
 武将名鑑は、小西行長、古田織部、蘆名盛氏、加藤嘉明です。
 この中だと蘆名盛氏かなって感じなので、今日はその辺の話をちょこっとします。
 
 
 蘆名盛氏は、蘆名氏第16代目当主。蘆名氏の全盛期を築いたとして有名です。
 正室は、伊達藤次郎政宗の曾祖父さんにあたる伊達稙宗の娘さんです。
 そんなわけで、伊達と蘆名って仲が悪そうですけど、実は結構姻戚関係が深いです。
 まあ、それは東北諸藩の特徴でもあるんですけどね。
 伊達政宗が奥州の覇権を争った相手が、尽く姻戚関係なのは、曾祖父さんの稙宗のせいだったりもします。
 
 
 それで、蘆名盛氏は会津蘆名氏の16代目となるのですが、蘆名氏の出は相模の三浦氏と言われ、鎌倉以来の名門ですね。
 三浦氏は、桓武平氏の出なのですが、源頼朝の兄である鎌倉悪源太義平を支援したり、頼朝が挙兵するとすぐに参加にはせ参じたりと源氏色が濃いお家柄です。
 それでですね、盛氏の父に当たる蘆名盛舜なんですが、13代当主の盛高の次男なんですが、14代の兄盛滋に子がなかった為、家督を継いだという経緯があります。
 しかし、家督相続後に盛幸が生まれるという、豊臣秀吉しかりの家督相続争いの火種が出来るんですが、ここは揉めずにうまく納まります。
 
 そして、盛氏は嫡男盛興に家督を譲るが、盛興が29歳の若さで急死してしまった為、二階堂氏から盛隆を養子に迎えて、家督を継がせますが、盛隆も23歳という若さで寵臣に殺されるという次第になってしまい、その後はお家騒動を繰り返し、蘆名氏は滅亡へ向かって加速して、その後、第22代蘆名千鶴丸で滅亡してしまうのです。
 
 
 ただですね、先程出てきた盛氏の叔父にあたる、盛滋の子、盛幸の家系は伊達家に仕えることで存続し、その後も脈々と血を繋いでいるのです。
 
 
 ちなみに今号の表紙の蒲生氏郷は、蘆名→伊達→蒲生と会津の領主が変わっていったので、意外と話に繋がりがありましたね。
 
 
 
 
 合戦リストは備中高松城の戦いです。
 どこですか? と日本地図を広げて問われて、備中高松城を指せる人は少ないと思いますが、水攻め、本能寺の変、大返しと歴史の起点になってますね。
 
 
 
 
 名城コレクションは金沢城です。
 学生の頃、見に行ったことがありますが、感動したりとかそういうものはなかったかな。
 印象としては、なんかイメージより狭かった記憶があります。
 
 
 
 
 
 
 
 ・「日本人の誇りを傷つけられ我慢できなかった」 福岡の男性が、船長釈放について検察審査会に審査開始を申し立て
 
 
 あぁ、これは賢いやり方なのかもね、取り敢えずは。
 
 
 
 
 
 
 ・これほど日本国民が一体となって激怒したことが今までにあっただろうか
 
 
 >>「売国奴!」「辞めちまえ!」
 
 >>大相撲秋場所の千秋楽だった26日夕、菅首相が優勝した横綱白鵬に総理大臣杯を手渡すために東京・両国国技館の土俵に上がると、客席からすさまじいヤジが飛んだ。
 
 
 これって本当なのかなぁ~? と思うくらい私は、日本人に不信感がある。
 
 
 
 
 
 
 
 ・【FF14】 秋のBAN祭りキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
 
 
 >>220 グラフィックデザイナー(愛知県)[sage] 2010/09/27(月) 20:25:38.03 ID:99U0IRlC0
 
    中国語で報告しないから理解できなかった
 
 
 
 「ああ、なるほど」とここでオモタ。
 
 
 
 
 
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2010.09.14

バターン死の行進。

 昨日23:10臥床。同23:50起床。0:30臥床。本日5:25起床。気温24℃。天気:曇。歩数17197。
 もう昨日寝る前に見た記事のせいで、怒りで眠れなかった。
 いや、正確にはこうなることが分かっていたので、記事の内容を読まなかったのですが、題名でだけ想像できてしまったので、結局は怒りで寝付けなかったという…。
 
 そして、今日、私はこの怒りを全力で、全力で書きます。
 頭の中では、"とある科学の超電磁砲"アニメ最終話の「これが私の全力ーーー!!!」CV:御坂美琴が再生されているので、その辺を感じていただけると私の今の気持ちがわかってもらえると思います。
 
 
 
 
 
 ・「バターン死の行進」 岡田外務大臣が公式謝罪
 
 
 アホ民主極まれり。
 
 バターン死の行進について、コイツがどれだけ知っているのだろうか?
 
 少なからずもこの事を知っている私の歴史的見解の中には、この件でアメリカに謝罪するなんてことは一ミリ足りともない!!
 
 
 当時の背景を知らずに歴史的事項を端的に捉えてはならないって言うのが私の持論なので、まずはこの"バターン死の行進"というのが、どういう状況で起こったのかを書いていこうと思います。
 
 太平洋戦争の開戦日12月8日、海軍の真珠湾攻撃と同時に陸軍も「山下奉文中将率いる第25軍のマレー作戦」と「本間雅晴中将率いる第14軍のフィリピン侵攻作戦」が開始されています。
 
 その中でのフィリピン侵攻作戦の途中にこの"バターン死の行進"は起こるのです。
 
 日本軍は、戦争継続の為というより、戦争を起こした最も大きな原因とも言える南方資源確保の為、戦争開始と共にフィリピンへの侵攻は已む得ないものでした。
 何故なら、フィリピンは1899年にアメリカの植民地となり、アメリカのアジアにおける一大拠点であったからです。
 しかも、開戦時には既にアメリカ・フィリピン兵が15万人も滞在の上、戦闘機約200機、爆撃機約50機、そして、日本軍の持っていない"4発大型重爆撃機"であるB-17が30機~70機(実際は35機と言われている)が配備されていたのです。
 こんな一大拠点を野放しにして、南方進出などありえず、日本陸軍の最初の攻撃地になったのは当然と言える場所なのです。
 
 そんな大事な初戦のフィリピン侵攻作戦ですが、第14軍司令官"本間雅晴"中将は、物腰の柔らかな紳士武官であり、陸軍の中では文弱って言われていた人です。
 実際は、文弱ではなくて、欧米的な合理主義者であったのですが、当時の陸軍の中では、あいつは理屈っぽくて、口ばっかりだみたいな感じだったのでしょう。
 ちなみにそんな評価の人をこんな大事な初戦の司令官に任命しちゃうところが、もう軍隊組織として腐っていた気がします。
 ただ本間中将の名誉の為に書いておきますと、彼は今後出てくる陸軍司令官の中では優秀な方です。…というより考えてみると陸軍の初期作戦を指揮した、マレー作戦"マレーの虎こと山下奉文中将"、今回のフィリピン侵攻作戦の"本間雅晴中将"、そして、この後の蘭印作戦を指揮する"今村均中将"は、結局、陸軍司令官の上から1番、2番、3番だった気がします。
 ちなみにこの3方作戦を成功させた3中将は、作戦終了後、みんな左遷されているという恐ろしさが日本陸軍の中にはあります。しかも、その内二人は戦後、この作戦の中の罪を問われて死刑になっているという……。
 
 余談ですが、本間雅晴中将と今村均中将は、陸大の同期です。
 そして、第27期卒業では、同期に東條英機もいます。
 ちなみにこの時の首席は、近代史史上、私は十指に入る名将と思う"今村均"です。3席が"本間雅晴"です。東條英機はというと11席です。
 11番が首相をやってて、1番が現場司令官という世界です。
 
 
 話が逸れ過ぎました。
 
 そんな11番に命令されて、3番が出向いたフィリピン侵攻作戦。
 この作戦で、陸軍は初期に大きなミスをしています。
 まず、この作戦の目標が「マニラ占領」なのか、「フィリピンからの米軍の駆逐」なのかを本間中将に問われた際、参謀本部は「マニラ占領」にしてしまったことです。
 最初から本間中将は参謀本部のフィリピン侵攻作戦の甘さに不満を持っていたんですが、前述した通り、本間中将は欧米的な思考を持つ将官なので、それならと思いマニラへ向かって進撃し、予定通りマニラを占領するのですが、当時のアメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーは、最初から上陸されたらマニラでの抵抗は不利であると悟っていたので、水際戦で敗れ、上陸されるとすぐにバターン半島での籠城戦へと切り替えていったのです。
 
 10万人近い兵がバターン半島へと篭城することになってしまったことに参謀本部は、第14軍司令部を責めますが、元々、この件に関しては本間中将は参謀本部に了解を取っての作戦であった為、本間中将に罪はないのですが、そんなことは日本的陸軍思想の上では意味を成さずに、結局、第14軍はバターン半島の攻略を行わなければならなくなるのです。
 しかし、第14軍の主力部隊である第48師団と第5飛行集団は、蘭印作戦の為に転進させられてしまった為、治安維持部隊とも言える第65旅団(奈良旅団)にて、バターン半島を攻撃しなくちゃいけなくなったのが、第一の悲劇。
 奈良旅団は、治安維持が目的の部隊であった為、老兵ぞろいで武器も日露戦争後の旧式ばかり。野砲も持っていたとは言え、治安維持の為に見せびらかす、日露戦争時代の撃てば2メートルは砲が下がるといったバターン半島なんてジャングルばっかりの場所では全く使いものにならない代物を持っての進撃となるのです。
 そんな二流部隊で攻撃をしかけたのが、最初っから篭城するつもりでマッカーサーが構築した一大防御陣だったのだからたまらない。
 しかも、バターン半島は80%が山と森林で出来ていると言われていて、当時は二つの道路以外は未開の地もいいところだったのです。
 これを約7500名の奈良旅団で、約8万人もの兵が篭る半島を攻撃したというのも凄まじいですが、その犠牲も凄まじく奈良旅団の約2/3が死傷します。
 これが第一次バターン半島の戦いと呼ばれるものです。
 
 
 正直、ここで攻撃をやめて、封鎖作戦に切り替えれば、米軍は補給も脱出もままならない状況だったので、数ヶ月後には崩壊していだろうことは素人でもわかるのですが、蘭印・南支・満州と広大な戦域に手を出していた日本軍には予備兵力などなく、ここに留めておく3万程の軍でさえ、貴重な戦力であったこととアメリカ側の執拗な報道(「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」というニュースやダグラス・マッカーサーの有名な「アイ・シャル・リターン」は、この第二次バターン半島の戦い直前の3月20日にバターン半島を隠密裡に抜け出していたオーストラリアで発表されたもの)に刺激された為、早期の攻略を目指して、やっと今後も何度も続けるが、愚策"兵力の逐次投入"をやめて、まとまった兵力を投入します。
 まあ、でも、投入したとはいえ『約2師団・1旅団・1支隊・重砲連隊・3飛行戦隊』と約3万そこそこの部隊だったのですけどね。まあ、これで約10万近い兵を抱えるところを攻めて圧倒するんだから、当時の日本軍は凄まじいの一言です。
 
 そんなわけで1942年4月9日バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏したことによって、第二次バターン半島の戦いは集結します。
 
 
 そして、この後に今日の本題である「バターン死の行進」とこの後に米軍によって宣伝される捕虜輸送行為が行われるのです。
 
 
 実は、この第二次バターン半島の戦いの捕虜の数が半端なかったんです。
 まあ、マッカーサーがほぼ全軍を率いて篭ったのだから、当然といえば当然ですね。
 
 そして、ここで全軍を率いて篭ったことによるマッカーサーとルーズベルトの恐るべき罠が待っているのです。
 この戦いでの捕虜の数が7万人以上と言われ、実にその数は日本軍の倍にものぼっているのです。
 日本軍の兵站軽視は伝統芸みたいなものなので、それでも日本軍は三日四日は飲まず食わずで進撃しちゃったりするので、もうこの時も圧倒的な食糧不足なんですね。
 司令官の奈良中将ですら、今日一日乾パン一切れみたいな日があったりして、そんな状態で攻めるもんだから、こんなに大量に降伏されても養えないのですよ。
 しかも日本軍は基本的に徒歩移動なので、徒歩で行ったから徒歩で帰ってくるのが当然なわけですね。
 そして、上記したようにバターン半島はほとんどがジャングルと山で出来たような半島だっただけに輸送もうまく出来なかったんですよ。
 
 私は、これをアメリカ側の形を変えた焦土作戦だと思っていましたが、今日書いてて"信長の長島一向一揆攻め"の方に似ているなと思いました。ただ違うのは、信長は平気で降伏した後の一向一揆側を殲滅したことくらいかと。
 この時、あの有名な"辻政信"参謀は信長みたいに「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と相変わらず気が狂った発言をしていますが、取り敢えず、司令官である本間中将がこう言う指示をした記録はありません。…というか、この男以外こんな命令をする日本軍人はいません。
 
 そんなわけで「バターン死の行進」はアメリカ側の主張ですと1万人死んだみたいな話になっていますが、冷静に数字を調べますと米軍の死亡者は2300人で、それもほとんどがマラリアと飢えによる死亡で、後は現地民の逃亡による人数の減少だったのですが、「リメンバー・パールハーバー」と同じようにプロパガンダとして、「バターン死の行進」という言葉が生まれたのです。
 ちなみにこの時の宣伝に使われたアメリカ兵の遺体を運ぶ有名な写真があるのですが、捏造であったと近年アメリカのAP通信は認めています。
 
 後ですね、この件に関して、100歩譲って日本が悪いとしたら確かに捕虜に食料を配らず、100キロも歩かせたのは間違いだったとしても、一応現地の日本軍人は少ない自分の食料を分け与えてなんとかしようとしてるんですよ。
 ただ自分すら食べるものが無いのであげることも出来ずにかなり苦しい心情だったと思いますよ。
 言い訳がましいかも知れませんが、こんな状態がアメリカ側にあったら、普通に倍以上死んでると思いますよ。なんせ、この第二次攻撃の前には多くの現地民兵が日本軍に降伏しており、口々に「アメリカ兵は差別が酷く我々フィリピン兵には一日一回の食事、それも空き缶に半分の粥だけだ」「最前線に立たされるのはいつもフィリピン兵だ。奴等は我々が退こうとすると後ろから機関銃で撃ってくる」と差別や迫害を訴えて降伏してきていたのだから。
 
 まあ、アメリカの兵站思想は半端じゃないので、そんな状態では戦わないんですけどね。
 
 
 要は兵站による思想が戦国時代より悪化している日本軍と近代的兵站思想を持つアメリカ軍との思想の差がこの悲劇を起こしたとも言えます。
 
 
 そして、このフィリピン侵攻作戦をした本間中将は、フィリピン占領の後、左遷されて予備役入りしていたにも関わらず、戦後呼び出されて、マニラ軍事裁判にて、フィリピンを追われたマッカーサーの復讐とも言える配慮で、この"バターン死の行進"を罪に問われて銃殺刑になっています。
 
 
 
 つうことで、岡田はここまでわかって言ってんのか!!ってことだ。
 
 
 
 
 
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2010.09.10

戦国武将データファイル 13号。

 昨日22:50臥床。本日5:10起床。気温22℃。天気:曇。
 涼しい、スゴく涼しい。昨日は久しぶりにエアコンをつけずに寝れた。
 
 
 
Busyo_13
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 13号。
 
 
 たまってるので、積極政策です。
 今回の表紙は、朝倉義景です。
 
 
 義景にはあまり興味がないのですが、朝倉氏は意外と好きなので、今日はその辺を書こうと思います。
 
 朝倉氏と言えば、越前守護職。
 戦国時代初期に勢力の強かった家です。
 氏は、開化天皇を祖とする、日下部氏の流れみたいです。
 
 
 それで、朝倉氏が力をつけたのは、7代の英林孝景の時で、この孝景は、応仁の乱に参加したりと中央の混乱に乗じ、越前守護職であった斯波氏から、守護職を奪ったりしました。
 そして、日本史学的には「朝倉敏景十七箇条」っていうのを制定した人物として取り上げられるかと思います。
 
 この英林孝景の8男が、有名な"朝倉宗滴"こと朝倉教景です。
 朝倉氏の台頭にこの宗滴なくしてはありえず、語らずにはいられません。
 
 実際、朝倉宗滴は英林孝景の8男とはいえ、父の幼名をついでおり(小太郎)、お爺さんの朝倉家景の幼名も小太郎と一緒の為、嫡男として期待されていたのではないかとも言われています。ただ、この後の朝倉氏は、8代氏景、9代貞景、10代宗淳孝景、11代義景までの当主の幼名は氏景と同じ孫太郎になります。
 まあ、宗滴4歳の時に英林孝景は亡くなっているので、マユツバの線を出ないお話ということかな。
 
 この朝倉宗滴、当主ではありませんでしたが、働きと権力は「貞景・宗淳孝景・義景」と三代に渡り奮い、この宗滴いてこその朝倉家であった感が否めません。
 有名な話としては、近江の暴れん坊"浅井亮政"を牽制するために小谷城の金吾嶽に五ヶ月在陣した話が、ヤンマガの「センゴク」でも取り上げられていました。
 ちなみになんでここのことが金吾嶽と呼ばれるかと言いますと、宗滴の名乗りが"朝倉太郎左衛門尉教景"であり、左衛門尉→衛門府ときて、衛門府の唐名が金吾だったので、金吾嶽とつけられ、後に小谷城金吾丸となるのです。めちゃ、ややっこしいですね。
 ただ、この衛門って、右衛門とか左衛門とかよく聞いたことがあると思いますが、武士には人気の名乗りなんですね。
 その理由としては、源平の時には、あの源義経が任じられた職であったり、唐名の金吾というのからは、後漢の光武帝"劉秀"の有名な言葉である「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」なんてのがあったりして、金吾は人気職なんですよ。
 
 それで、先週号でお話した"金ヶ崎城"は、この時代では、朝倉宗滴の居城だったりもします。
 この金ヶ崎城を拠点に敦賀郡司として、朝倉家の軍務をほぼ一手に引き受け、北は加賀、西は若狭、東は美濃、南は京へと八面六臂の働きをするのです。
 
 実際のところは、この宗滴の優秀さと働きが、在世の朝倉家の興隆と没後の朝倉家の衰退を招いてしまったといえなくもないのです。
 良くも悪くも宗滴が仕切ってしまっていた為、朝倉家当主はあまり戦場に出ることがなく、文化人としては評価が高くなったが、戦国を生きる武将としては育たなかったのです。
 この悪弊が宗滴の死後、如実に現れてしまい、義景は何度となく、信長を撃つ機会を儲けながら、攻め切れず、結局は滅亡させられてしまうのです。
 
 ちなみにこの朝倉宗滴は、天下の三茄子と呼ばれる"九十九茄子"を所有していたことでも有名です。
 この九十九茄子、名前が"つつも"から"つくも"に変わったのにはお値段が99貫だったことからきているんですが、この宗滴が手に入れた時には500貫と言われ、その後の松永久秀の時は1000貫、明治時代の所有者、岩崎弥之助は、弥太郎お兄ちゃんに明治初期に400円の借金をして買ったと言われています。
 それでなんで弥之助が買ったかというと三菱財閥の起こりが海援隊の後身の"九十九商会"であったことから、美術的価値の他に九十九という名前に縁起をかついで買ったとも言われています。
 
 
 ここからも余談です。
 朝倉義景の父である10代宗淳孝景と7代英林孝景と言うのが、今日の話に出てきましたが、これは見ての通り、7代と10代が同じ「孝景」なので、こういうふうに言い分けるのですが、あの有名な"伊達政宗"も8代と17代に伊達政宗がいる為、8代を"大膳大夫政宗"と呼び、17代を"藤次郎政宗"と呼びます。
 有名なのは、17代の"藤次郎政宗"の方です。
 
 
 
 
 武将名鑑は、朝倉義景の他、滝川一益、豊臣秀頼、津軽為信、鳥居元忠です。
 
 津軽為信には興味がありますので、ちょっと書きます。
 
 私は、津軽と南部の中の悪さに興味があって、青森と岩手出身の大工とかに会うといつもその話を聞きます。
 ただ今までの聞き取り調査の結果からすると、仲悪いよって言う人もいるし、特に気にしないって言う人もいて、個人的にワクワクするような逸話を聞けたことはまだありません。
 
 ちなみになんで、津軽と南部が仲が悪いかというと津軽為信は、元々南部の家臣であったのですが、南部のお家騒動に乗じて、津軽地方で勢力を伸ばし、独立したという経緯があるからなのです。
 私個人としては、為信はかなり苦労して津軽地方を制圧しているので、のうのうとしていた南部より好感を持っています。 まあ、南部信直があまり好きではないというのが大きいですが。
 
 そんなわけで、戦国時代から江戸時代、明治の廃藩置県まで津軽と南部はチョコチョコ揉めます。
 江戸時代には、野辺地(のへじ)西方の烏帽子岳周辺の帰属問題で揉めたり、戊辰戦争時には"野辺地戦争"と呼ばれる小競り合いもしています。
 
 その後、廃藩置県で南部の八戸・七戸地方が弘前県に合併されるように青森県を作ってしまったのが、また、明治政府のイジメというか、気が利かないというか。
 要は、この為、七戸・八戸に住んでる人は、県庁に用がある場合には、嫌いな津軽地方にある青森県庁に行かなくてはならなくなったというのがまたねぇ…。
 そんなわけで、昔、この青森県旧南部藩の人たちは、青森県庁を嫌がって、八戸市役所を県庁って呼ぶなんて話も聞いたことがありましたが、裏は取ってないので本当かどうかはわかりません。
 
 ちなみに明治政府は、宮城と岩手の境でもこんなことをやってます。
 現在の岩手県一関市は、元々仙台藩伊達家の分家である田村家の領土であったから、廃藩置県の時に普通ならば宮城県に入れられてもおかしくないのに、仙台藩は東軍であった為、こっちはワザと分割されたと言われています。
 
 余談ですが、この田村家一関藩は、伊達政宗の正室・愛姫の実家で、途絶えていたのを正宗と愛姫の孫によって再興させた藩であり、田村家は辿って行くと征夷大将軍・坂上田村麻呂を祖とするお家だったりします。
 更に、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩が切腹したのが、この田村さんちの江戸屋敷です。
 
 
 
 
 合戦リストは、天目山の戦いです。
 個人的には、天目山に戦いなんかあったか?って感じです。
 あの大大名、武田家があっさりと滅んでしまうのが、またなんとも言えないです。
 
 
 
 
 名城コレクションは、福知山城。
 さすが明智光秀の縄張りというか、立派なものです。
 
 
 
 
 
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