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2010.09.14

バターン死の行進。

 昨日23:10臥床。同23:50起床。0:30臥床。本日5:25起床。気温24℃。天気:曇。歩数17197。
 もう昨日寝る前に見た記事のせいで、怒りで眠れなかった。
 いや、正確にはこうなることが分かっていたので、記事の内容を読まなかったのですが、題名でだけ想像できてしまったので、結局は怒りで寝付けなかったという…。
 
 そして、今日、私はこの怒りを全力で、全力で書きます。
 頭の中では、"とある科学の超電磁砲"アニメ最終話の「これが私の全力ーーー!!!」CV:御坂美琴が再生されているので、その辺を感じていただけると私の今の気持ちがわかってもらえると思います。
 
 
 
 
 
 ・「バターン死の行進」 岡田外務大臣が公式謝罪
 
 
 アホ民主極まれり。
 
 バターン死の行進について、コイツがどれだけ知っているのだろうか?
 
 少なからずもこの事を知っている私の歴史的見解の中には、この件でアメリカに謝罪するなんてことは一ミリ足りともない!!
 
 
 当時の背景を知らずに歴史的事項を端的に捉えてはならないって言うのが私の持論なので、まずはこの"バターン死の行進"というのが、どういう状況で起こったのかを書いていこうと思います。
 
 太平洋戦争の開戦日12月8日、海軍の真珠湾攻撃と同時に陸軍も「山下奉文中将率いる第25軍のマレー作戦」と「本間雅晴中将率いる第14軍のフィリピン侵攻作戦」が開始されています。
 
 その中でのフィリピン侵攻作戦の途中にこの"バターン死の行進"は起こるのです。
 
 日本軍は、戦争継続の為というより、戦争を起こした最も大きな原因とも言える南方資源確保の為、戦争開始と共にフィリピンへの侵攻は已む得ないものでした。
 何故なら、フィリピンは1899年にアメリカの植民地となり、アメリカのアジアにおける一大拠点であったからです。
 しかも、開戦時には既にアメリカ・フィリピン兵が15万人も滞在の上、戦闘機約200機、爆撃機約50機、そして、日本軍の持っていない"4発大型重爆撃機"であるB-17が30機~70機(実際は35機と言われている)が配備されていたのです。
 こんな一大拠点を野放しにして、南方進出などありえず、日本陸軍の最初の攻撃地になったのは当然と言える場所なのです。
 
 そんな大事な初戦のフィリピン侵攻作戦ですが、第14軍司令官"本間雅晴"中将は、物腰の柔らかな紳士武官であり、陸軍の中では文弱って言われていた人です。
 実際は、文弱ではなくて、欧米的な合理主義者であったのですが、当時の陸軍の中では、あいつは理屈っぽくて、口ばっかりだみたいな感じだったのでしょう。
 ちなみにそんな評価の人をこんな大事な初戦の司令官に任命しちゃうところが、もう軍隊組織として腐っていた気がします。
 ただ本間中将の名誉の為に書いておきますと、彼は今後出てくる陸軍司令官の中では優秀な方です。…というより考えてみると陸軍の初期作戦を指揮した、マレー作戦"マレーの虎こと山下奉文中将"、今回のフィリピン侵攻作戦の"本間雅晴中将"、そして、この後の蘭印作戦を指揮する"今村均中将"は、結局、陸軍司令官の上から1番、2番、3番だった気がします。
 ちなみにこの3方作戦を成功させた3中将は、作戦終了後、みんな左遷されているという恐ろしさが日本陸軍の中にはあります。しかも、その内二人は戦後、この作戦の中の罪を問われて死刑になっているという……。
 
 余談ですが、本間雅晴中将と今村均中将は、陸大の同期です。
 そして、第27期卒業では、同期に東條英機もいます。
 ちなみにこの時の首席は、近代史史上、私は十指に入る名将と思う"今村均"です。3席が"本間雅晴"です。東條英機はというと11席です。
 11番が首相をやってて、1番が現場司令官という世界です。
 
 
 話が逸れ過ぎました。
 
 そんな11番に命令されて、3番が出向いたフィリピン侵攻作戦。
 この作戦で、陸軍は初期に大きなミスをしています。
 まず、この作戦の目標が「マニラ占領」なのか、「フィリピンからの米軍の駆逐」なのかを本間中将に問われた際、参謀本部は「マニラ占領」にしてしまったことです。
 最初から本間中将は参謀本部のフィリピン侵攻作戦の甘さに不満を持っていたんですが、前述した通り、本間中将は欧米的な思考を持つ将官なので、それならと思いマニラへ向かって進撃し、予定通りマニラを占領するのですが、当時のアメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーは、最初から上陸されたらマニラでの抵抗は不利であると悟っていたので、水際戦で敗れ、上陸されるとすぐにバターン半島での籠城戦へと切り替えていったのです。
 
 10万人近い兵がバターン半島へと篭城することになってしまったことに参謀本部は、第14軍司令部を責めますが、元々、この件に関しては本間中将は参謀本部に了解を取っての作戦であった為、本間中将に罪はないのですが、そんなことは日本的陸軍思想の上では意味を成さずに、結局、第14軍はバターン半島の攻略を行わなければならなくなるのです。
 しかし、第14軍の主力部隊である第48師団と第5飛行集団は、蘭印作戦の為に転進させられてしまった為、治安維持部隊とも言える第65旅団(奈良旅団)にて、バターン半島を攻撃しなくちゃいけなくなったのが、第一の悲劇。
 奈良旅団は、治安維持が目的の部隊であった為、老兵ぞろいで武器も日露戦争後の旧式ばかり。野砲も持っていたとは言え、治安維持の為に見せびらかす、日露戦争時代の撃てば2メートルは砲が下がるといったバターン半島なんてジャングルばっかりの場所では全く使いものにならない代物を持っての進撃となるのです。
 そんな二流部隊で攻撃をしかけたのが、最初っから篭城するつもりでマッカーサーが構築した一大防御陣だったのだからたまらない。
 しかも、バターン半島は80%が山と森林で出来ていると言われていて、当時は二つの道路以外は未開の地もいいところだったのです。
 これを約7500名の奈良旅団で、約8万人もの兵が篭る半島を攻撃したというのも凄まじいですが、その犠牲も凄まじく奈良旅団の約2/3が死傷します。
 これが第一次バターン半島の戦いと呼ばれるものです。
 
 
 正直、ここで攻撃をやめて、封鎖作戦に切り替えれば、米軍は補給も脱出もままならない状況だったので、数ヶ月後には崩壊していだろうことは素人でもわかるのですが、蘭印・南支・満州と広大な戦域に手を出していた日本軍には予備兵力などなく、ここに留めておく3万程の軍でさえ、貴重な戦力であったこととアメリカ側の執拗な報道(「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」というニュースやダグラス・マッカーサーの有名な「アイ・シャル・リターン」は、この第二次バターン半島の戦い直前の3月20日にバターン半島を隠密裡に抜け出していたオーストラリアで発表されたもの)に刺激された為、早期の攻略を目指して、やっと今後も何度も続けるが、愚策"兵力の逐次投入"をやめて、まとまった兵力を投入します。
 まあ、でも、投入したとはいえ『約2師団・1旅団・1支隊・重砲連隊・3飛行戦隊』と約3万そこそこの部隊だったのですけどね。まあ、これで約10万近い兵を抱えるところを攻めて圧倒するんだから、当時の日本軍は凄まじいの一言です。
 
 そんなわけで1942年4月9日バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏したことによって、第二次バターン半島の戦いは集結します。
 
 
 そして、この後に今日の本題である「バターン死の行進」とこの後に米軍によって宣伝される捕虜輸送行為が行われるのです。
 
 
 実は、この第二次バターン半島の戦いの捕虜の数が半端なかったんです。
 まあ、マッカーサーがほぼ全軍を率いて篭ったのだから、当然といえば当然ですね。
 
 そして、ここで全軍を率いて篭ったことによるマッカーサーとルーズベルトの恐るべき罠が待っているのです。
 この戦いでの捕虜の数が7万人以上と言われ、実にその数は日本軍の倍にものぼっているのです。
 日本軍の兵站軽視は伝統芸みたいなものなので、それでも日本軍は三日四日は飲まず食わずで進撃しちゃったりするので、もうこの時も圧倒的な食糧不足なんですね。
 司令官の奈良中将ですら、今日一日乾パン一切れみたいな日があったりして、そんな状態で攻めるもんだから、こんなに大量に降伏されても養えないのですよ。
 しかも日本軍は基本的に徒歩移動なので、徒歩で行ったから徒歩で帰ってくるのが当然なわけですね。
 そして、上記したようにバターン半島はほとんどがジャングルと山で出来たような半島だっただけに輸送もうまく出来なかったんですよ。
 
 私は、これをアメリカ側の形を変えた焦土作戦だと思っていましたが、今日書いてて"信長の長島一向一揆攻め"の方に似ているなと思いました。ただ違うのは、信長は平気で降伏した後の一向一揆側を殲滅したことくらいかと。
 この時、あの有名な"辻政信"参謀は信長みたいに「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と相変わらず気が狂った発言をしていますが、取り敢えず、司令官である本間中将がこう言う指示をした記録はありません。…というか、この男以外こんな命令をする日本軍人はいません。
 
 そんなわけで「バターン死の行進」はアメリカ側の主張ですと1万人死んだみたいな話になっていますが、冷静に数字を調べますと米軍の死亡者は2300人で、それもほとんどがマラリアと飢えによる死亡で、後は現地民の逃亡による人数の減少だったのですが、「リメンバー・パールハーバー」と同じようにプロパガンダとして、「バターン死の行進」という言葉が生まれたのです。
 ちなみにこの時の宣伝に使われたアメリカ兵の遺体を運ぶ有名な写真があるのですが、捏造であったと近年アメリカのAP通信は認めています。
 
 後ですね、この件に関して、100歩譲って日本が悪いとしたら確かに捕虜に食料を配らず、100キロも歩かせたのは間違いだったとしても、一応現地の日本軍人は少ない自分の食料を分け与えてなんとかしようとしてるんですよ。
 ただ自分すら食べるものが無いのであげることも出来ずにかなり苦しい心情だったと思いますよ。
 言い訳がましいかも知れませんが、こんな状態がアメリカ側にあったら、普通に倍以上死んでると思いますよ。なんせ、この第二次攻撃の前には多くの現地民兵が日本軍に降伏しており、口々に「アメリカ兵は差別が酷く我々フィリピン兵には一日一回の食事、それも空き缶に半分の粥だけだ」「最前線に立たされるのはいつもフィリピン兵だ。奴等は我々が退こうとすると後ろから機関銃で撃ってくる」と差別や迫害を訴えて降伏してきていたのだから。
 
 まあ、アメリカの兵站思想は半端じゃないので、そんな状態では戦わないんですけどね。
 
 
 要は兵站による思想が戦国時代より悪化している日本軍と近代的兵站思想を持つアメリカ軍との思想の差がこの悲劇を起こしたとも言えます。
 
 
 そして、このフィリピン侵攻作戦をした本間中将は、フィリピン占領の後、左遷されて予備役入りしていたにも関わらず、戦後呼び出されて、マニラ軍事裁判にて、フィリピンを追われたマッカーサーの復讐とも言える配慮で、この"バターン死の行進"を罪に問われて銃殺刑になっています。
 
 
 
 つうことで、岡田はここまでわかって言ってんのか!!ってことだ。
 
 
 
 
 
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