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2010.09.07

戦国武将データファイル 12号。

 昨日23:30臥床。本日5:20起床。気温28℃。天気:晴。
 風が少し涼しくなってきただろうか。
 昨晩は、たまってしまった戦国武将データファイルを読んでいて寝るのが遅くなってしまった。
 
 
 
 
 
Busyo_12
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 12号。
 
 
 そんなわけで、今日は昨日読んだ12号のお話。13・14号が送られてきてビビって読んだのは内緒。
 
 
 今週号の表紙は上杉景勝です。
 私は、あまり興味がありません。
 
 直江兼続が大河ドラマになったりして、取り上げられていましたが、私の中では兼続も評価が低いので、どうにもならないんですよ。
 率直になんであんなに人気があるのかもわかりません。だって、景勝と兼続って、国を小さくしただけじゃんって思うんですよ。
 関ヶ原の時もなんか北を攻めたりして、三成頼みというか、直江状なんてかっこいい扱いされてますが、あんなもん書いたら江戸を攻めろや!って感じです。
 なんかこう、燃えるものがない二人なんです。
 
 
 それで、武将名鑑は、上杉景勝・斎藤義龍・徳川秀忠・荒木村重・大内義興ですが、この中で話してもいいかなと思うのは、大内義興くらいですかね。
 でも、今日はこの後の合戦リストの方が話したいので、武将名鑑は割愛します。
 
 
 
 合戦リストは、金ヶ崎城の戦いです。
 
 まあ、戦国期の金ヶ崎城の戦いは、金ヶ崎城の退き口って書いた方が私にはしっくりきますし、こっちの方が有名だと思います。
 
 世間的には、秀吉が殿を務めて、信長に褒められたって言うのが有名ですが、現在では本当に秀吉が殿だったの?なんて話も出てきています。
 ただ、秀吉がこの戦の後に信長から黄金数十枚をもらったって言うことだけは本当みたいです。
 そのことから、秀吉が殿を務めて、活躍したって話になってるんでしょうね。
 
 
 さて、本日の本題の本題に入ります。
 
 この金ヶ崎城、実はこの金ヶ崎城退き口戦から、遡ること約230年前の南北朝の時代にも大きな戦場になってるんですね。
 まあ、普通に考えて、金ヶ崎城と言えば、8割から9割の人が信長の金ヶ崎城退き口をあげると思うので、こっちは非常にマイナーだと思うのですが、実は南北朝時代の金ヶ崎城の戦いは、足利対新田という、源氏の棟梁対棟梁の凄まじい戦場であったことがあるんですよ。
 
 南北朝時代の金ヶ崎城の戦いのあった1336年は、都を一度追われた足利尊氏が勢力を盛り返し、この年の5月には湊川の戦いがあり、そこで大楠公こと"楠木正成"が戦死しています。
 世間的には、楠木正成が有名ですが、この時、後の南朝側と言われる後醍醐天皇側の大将が、実は新田義貞なのです。
 そして、この新田義貞を守る為に、楠木正成がここで討死したとも言われています。
 では、何故、楠木正成は、新田義貞を命をかけて守ったかと言うと、新田義貞は源氏の棟梁の家系だからなのです。
 
 鎌倉幕府を開いた、源頼朝の河内源氏は頼朝の後、三代で滅んでしまいましたが、その傍流から新田氏、足利氏が出ているのです。
 そんなわけで、幕府を開く為の争いの中に、後醍醐天皇率いる公家・皇室と足利尊氏率いる武士との戦いの他に、足利対新田という源氏の直系を巡っての戦いも含まれていたのです。
 
 実際のところ、この新田義貞が南朝・後醍醐天皇側につかなければ、南北朝時代などなく、あっさりと武士による幕府が開かれていただろうことは明白なのです。
 何故なら、この時代、なんだかんだと言いつつも結局のところ武力という大きな力を持っているのは、武士であり、この武士を率いれるのが、源氏の棟梁という家柄だけだからなのです。
 武士は、頼朝が作ってくれた自分たちの世をものすごく感謝していて、なんだかんだ言っても源氏が大好きなのです。
 
 後醍醐天皇を守った武将によく「三木一草(さんぼくいっそう)」という言葉が使われて、その内訳は「楠木正成」「結城親光」「名和長年」「千種忠顕」のことを言うのですが、千種忠顕は公家武将なので、除外するとして、他の三木の武将は皆名将ではあるんですが、率いれる兵数というのが、1万にも満たないんですよ。
 じゃあ、新田義貞はどうかって言うと最盛期には20万以上の兵を集めることが出来ています。
 
 それは何故か? 要は、源氏の棟梁じゃないと当時の武士は集まらないのです。
 故に楠木正成は、新田義貞を討たれたらもう武士は集まらないのを知っていたので、命をかけて守ったわけです。
 
 
 そして、その湊川の戦いの戦いに敗れた新田義貞が、都を追われ、北陸・越後へと逃れていく際に寄ったのが、この金ヶ崎城であったのです。
 この金ヶ崎城に逃れてきた季節が冬だったので、厳冬の北陸路は進むに行かず、退くに行かず、足止めをくらっていると北朝側に発見され、金ヶ崎城は大兵によって包囲されてしまうのです。
 ただ、この金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した小高い丘に築かれた要害であった為、北朝側も攻めあぐねて、包囲兵糧攻めをするのです。
 極限の飢餓状態に陥った城内は、馬を食い、草を食って命を繋ぐもこのままでは落城も時間の問題となったので、義貞と弟の義助は杣山城に脱出し、金ヶ崎城の包囲を破ろうとするが、失敗し、1337年3月6日に金ヶ崎城は落城となるのです。
 この時に義貞の子、義顕、後醍醐天皇の子、尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送されたのでした。
 
 
 義貞は、この後も越前で戦い続け、金ヶ崎城も奪還するのですが、1338年7月に越前藤島城を攻める味方を督戦する為に向かう途中、敵方と遭遇し、混戦の末、討死してしまいます。
 そして、同年8月11日に足利尊氏が、征夷大将軍に任じられるのです。
 
 
 
 
 名城コレクションは、江戸城です。
 江戸城はまだいろいろ残っているので、興味深いですね。
 近くなので、すぐに行けるしね。
 
 

 
 
 
 
 ・福永武彦の終戦直後の日記見つかる
 
 
 先日チラッと書いた、池澤春菜さんのおじいさんの日記。
 
 
 
 
 
 
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《参考本》
♯[歴史専門本]
「直江兼続」/矢田俊文 編(高志書院2008年出版,税込\2600位)※老舗書店や図書館で購入可。
♯ネット:米沢市が兼続公や天地人の案内ホームページを開設して、兼続公の生涯や史跡、業績を紹介していたので「米沢 兼続」や「米沢 天地人」で検索してみて下さい。

以下、
・改定版:上越市(新潟県)「謙信・兼続」検定本 公式ガイドブック(新潟日報社ヨリ2009年出版,税込千円弱)

以上、宜しかったら読んで下さい。

投稿: 兼続 | 2010.09.10 10:06

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