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2010.09.10

戦国武将データファイル 13号。

 昨日22:50臥床。本日5:10起床。気温22℃。天気:曇。
 涼しい、スゴく涼しい。昨日は久しぶりにエアコンをつけずに寝れた。
 
 
 
Busyo_13
 
 
 
 ・戦国武将データファイル 13号。
 
 
 たまってるので、積極政策です。
 今回の表紙は、朝倉義景です。
 
 
 義景にはあまり興味がないのですが、朝倉氏は意外と好きなので、今日はその辺を書こうと思います。
 
 朝倉氏と言えば、越前守護職。
 戦国時代初期に勢力の強かった家です。
 氏は、開化天皇を祖とする、日下部氏の流れみたいです。
 
 
 それで、朝倉氏が力をつけたのは、7代の英林孝景の時で、この孝景は、応仁の乱に参加したりと中央の混乱に乗じ、越前守護職であった斯波氏から、守護職を奪ったりしました。
 そして、日本史学的には「朝倉敏景十七箇条」っていうのを制定した人物として取り上げられるかと思います。
 
 この英林孝景の8男が、有名な"朝倉宗滴"こと朝倉教景です。
 朝倉氏の台頭にこの宗滴なくしてはありえず、語らずにはいられません。
 
 実際、朝倉宗滴は英林孝景の8男とはいえ、父の幼名をついでおり(小太郎)、お爺さんの朝倉家景の幼名も小太郎と一緒の為、嫡男として期待されていたのではないかとも言われています。ただ、この後の朝倉氏は、8代氏景、9代貞景、10代宗淳孝景、11代義景までの当主の幼名は氏景と同じ孫太郎になります。
 まあ、宗滴4歳の時に英林孝景は亡くなっているので、マユツバの線を出ないお話ということかな。
 
 この朝倉宗滴、当主ではありませんでしたが、働きと権力は「貞景・宗淳孝景・義景」と三代に渡り奮い、この宗滴いてこその朝倉家であった感が否めません。
 有名な話としては、近江の暴れん坊"浅井亮政"を牽制するために小谷城の金吾嶽に五ヶ月在陣した話が、ヤンマガの「センゴク」でも取り上げられていました。
 ちなみになんでここのことが金吾嶽と呼ばれるかと言いますと、宗滴の名乗りが"朝倉太郎左衛門尉教景"であり、左衛門尉→衛門府ときて、衛門府の唐名が金吾だったので、金吾嶽とつけられ、後に小谷城金吾丸となるのです。めちゃ、ややっこしいですね。
 ただ、この衛門って、右衛門とか左衛門とかよく聞いたことがあると思いますが、武士には人気の名乗りなんですね。
 その理由としては、源平の時には、あの源義経が任じられた職であったり、唐名の金吾というのからは、後漢の光武帝"劉秀"の有名な言葉である「官につくなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」なんてのがあったりして、金吾は人気職なんですよ。
 
 それで、先週号でお話した"金ヶ崎城"は、この時代では、朝倉宗滴の居城だったりもします。
 この金ヶ崎城を拠点に敦賀郡司として、朝倉家の軍務をほぼ一手に引き受け、北は加賀、西は若狭、東は美濃、南は京へと八面六臂の働きをするのです。
 
 実際のところは、この宗滴の優秀さと働きが、在世の朝倉家の興隆と没後の朝倉家の衰退を招いてしまったといえなくもないのです。
 良くも悪くも宗滴が仕切ってしまっていた為、朝倉家当主はあまり戦場に出ることがなく、文化人としては評価が高くなったが、戦国を生きる武将としては育たなかったのです。
 この悪弊が宗滴の死後、如実に現れてしまい、義景は何度となく、信長を撃つ機会を儲けながら、攻め切れず、結局は滅亡させられてしまうのです。
 
 ちなみにこの朝倉宗滴は、天下の三茄子と呼ばれる"九十九茄子"を所有していたことでも有名です。
 この九十九茄子、名前が"つつも"から"つくも"に変わったのにはお値段が99貫だったことからきているんですが、この宗滴が手に入れた時には500貫と言われ、その後の松永久秀の時は1000貫、明治時代の所有者、岩崎弥之助は、弥太郎お兄ちゃんに明治初期に400円の借金をして買ったと言われています。
 それでなんで弥之助が買ったかというと三菱財閥の起こりが海援隊の後身の"九十九商会"であったことから、美術的価値の他に九十九という名前に縁起をかついで買ったとも言われています。
 
 
 ここからも余談です。
 朝倉義景の父である10代宗淳孝景と7代英林孝景と言うのが、今日の話に出てきましたが、これは見ての通り、7代と10代が同じ「孝景」なので、こういうふうに言い分けるのですが、あの有名な"伊達政宗"も8代と17代に伊達政宗がいる為、8代を"大膳大夫政宗"と呼び、17代を"藤次郎政宗"と呼びます。
 有名なのは、17代の"藤次郎政宗"の方です。
 
 
 
 
 武将名鑑は、朝倉義景の他、滝川一益、豊臣秀頼、津軽為信、鳥居元忠です。
 
 津軽為信には興味がありますので、ちょっと書きます。
 
 私は、津軽と南部の中の悪さに興味があって、青森と岩手出身の大工とかに会うといつもその話を聞きます。
 ただ今までの聞き取り調査の結果からすると、仲悪いよって言う人もいるし、特に気にしないって言う人もいて、個人的にワクワクするような逸話を聞けたことはまだありません。
 
 ちなみになんで、津軽と南部が仲が悪いかというと津軽為信は、元々南部の家臣であったのですが、南部のお家騒動に乗じて、津軽地方で勢力を伸ばし、独立したという経緯があるからなのです。
 私個人としては、為信はかなり苦労して津軽地方を制圧しているので、のうのうとしていた南部より好感を持っています。 まあ、南部信直があまり好きではないというのが大きいですが。
 
 そんなわけで、戦国時代から江戸時代、明治の廃藩置県まで津軽と南部はチョコチョコ揉めます。
 江戸時代には、野辺地(のへじ)西方の烏帽子岳周辺の帰属問題で揉めたり、戊辰戦争時には"野辺地戦争"と呼ばれる小競り合いもしています。
 
 その後、廃藩置県で南部の八戸・七戸地方が弘前県に合併されるように青森県を作ってしまったのが、また、明治政府のイジメというか、気が利かないというか。
 要は、この為、七戸・八戸に住んでる人は、県庁に用がある場合には、嫌いな津軽地方にある青森県庁に行かなくてはならなくなったというのがまたねぇ…。
 そんなわけで、昔、この青森県旧南部藩の人たちは、青森県庁を嫌がって、八戸市役所を県庁って呼ぶなんて話も聞いたことがありましたが、裏は取ってないので本当かどうかはわかりません。
 
 ちなみに明治政府は、宮城と岩手の境でもこんなことをやってます。
 現在の岩手県一関市は、元々仙台藩伊達家の分家である田村家の領土であったから、廃藩置県の時に普通ならば宮城県に入れられてもおかしくないのに、仙台藩は東軍であった為、こっちはワザと分割されたと言われています。
 
 余談ですが、この田村家一関藩は、伊達政宗の正室・愛姫の実家で、途絶えていたのを正宗と愛姫の孫によって再興させた藩であり、田村家は辿って行くと征夷大将軍・坂上田村麻呂を祖とするお家だったりします。
 更に、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩が切腹したのが、この田村さんちの江戸屋敷です。
 
 
 
 
 合戦リストは、天目山の戦いです。
 個人的には、天目山に戦いなんかあったか?って感じです。
 あの大大名、武田家があっさりと滅んでしまうのが、またなんとも言えないです。
 
 
 
 
 名城コレクションは、福知山城。
 さすが明智光秀の縄張りというか、立派なものです。
 
 
 
 
 
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受信: 2010.09.10 18:37

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