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2010.07.23

戦国武将データファイル 7号。

Busyo7
 
 
 
 表紙は鬼島津こと島津義弘です。
 
 島津家は鎌倉時代から延々と薩摩に君臨する大領主。
 「島津に暗君なし」と言われるくらい時代時代に名君を輩出する皇室に次ぐくらいの日本きってのお家柄です。
 "世襲は悪"みたいな風潮があるけど、一概に言えないんだよなぁとそんな文章が紙面をにぎあわせている時にはいつも頭の中に思い浮かぶお家です。
 
 そんな島津家でも一番有名なのが、たぶんこの島津義弘。
 第15代当主・島津貴久の子で、島津四兄弟の次男坊です。
 兄義久が16代当主で、義弘が17代当主と言われて久しかったのですが、最近、当主にはなってない説なども出てきています。
 島津家の九州勢力拡大戦、豊臣政権下での朝鮮の役、天下分け目の関ヶ原の戦いでも高名を馳せています。
 
 朝鮮の役、関ヶ原両戦とも負け戦であったが、朝鮮の役では李舜臣を討取り、関ヶ原の戦いでは井伊直政という主将格を戦傷させるという戦果をあげています。
 ちなみに韓国の英雄と呼ばれている李舜臣を討ち取った露梁海戦は、朝鮮側の記録では李舜臣は流れ弾にあたって討死になってるみたいですが、たぶん、戦いの流れをみると海戦ではあったが島津家必殺の「釣り野伏せ」が炸裂したのではないかと個人的には思ってます。
 そして、釣り野伏せと並び島津家必殺の戦法と言える「捨て奸(すてがまり)」によって、井伊直政は重傷を負うのです。
 
 この「釣り野伏せ」と「捨て奸」の必殺技感はハンパなくカッコいいです。
 
 
 島津義弘は、文武両道、愛妻家、部下思いで隠居後は若者の育成に力を注ぐという申し分のない人物です。
 
 
 今週の武将名鑑には、佐竹義宣と尼子経久という興味のある人物も載っていたのですが、義弘が長くなったので、この二人はまた今度ということで。
 
 
 
 
 合戦リストは、小牧・長久手の戦いです。
 
 徳川家康対豊臣秀吉という胸熱の戦いです。
 兵力的には、大体2万対10万と言われ、圧倒的に秀吉有利なのに屈服させられない家康の強さってものが際立った戦いと言えるでしょうか。
 
 そういえば家康って、関ヶ原の戦いまで歴史に名の残る戦いでは、寡兵で戦うことが多いです。
 三方ヶ原、姉川、天正壬午、小牧長久手、関ヶ原と基本相手のが兵数は多いですね。
 これで負けたのが、三方ヶ原一回だけなんだから、信長や秀吉のような派手さはないですが、やはり戦上手であり、幕下の兵が強いということなんでしょう。
 信長や秀吉のようにまず相手より多兵で戦うのが戦いの基本ということを考えると、そこはそれでまた政略的にはどうなんだって言うのもあるかも知れませんけどね。
 
 
 余談ですが、後に『旗本八万騎』って言葉が出来るんですけど、これのいわれについては諸説ありますが、個人的には家康が関東入府の際の石高が約260万石と言われており、当時は1万石で200~300人の兵が雇えるという計算から、260×300=78000となるので旗本八万騎っていうのからきてるのかなと思うことにしてます。
 山岡荘八氏の小説徳川家康では、秀吉の奥さんである高台院が「家康を関東へ入れたのは、太閤殿下の間違いであった。260万石で雇える兵は約80000人。それが父祖以来の忠義一徹な三河武士に率いられてくるのじゃ。勝てようものではない」と関ヶ原前夜に嘆いているシーンがあったりもします。
 ただ今一番有力なのが、江戸時代旗本は5000人くらいで、御家人が17000人、その陪臣なんかを含めて80000人って言うのみたいだけど、これだと全然面白くないんだよね。
 まあ、正直なところ八万騎って言うのは、ゴロですよ、ゴロ。
 武士は八という数字が好きなのと"はちまん"という言葉の響きも好きなんですよ。
 
 それは武士の祖先とも言える源義家が「八幡太郎義家」って言うからです。
 
 
 
 話を戻しまして、小牧・長久手の戦闘の述懐をしていきましょう。
 
 前哨戦として、羽黒の戦いというのがあります。
 態度をはっきりさせていなかった池田恒興が犬山城を占拠して、秀吉側に与したことでこの地域の戦雲が一気に立ち上がるのです。
 家康はこれに対抗する為、すぐに小牧山城に移動を開始するんですが、池田側でも森長可が小牧山城を押さえる為に動き出しており、羽黒という場所に着陣します。
 そして、これを知った家康はすぐさま攻勢に出ることを決めます。
 酒井忠次、榊原康政を中心に5000の兵を率いらせて攻めかけるんです。
 この際、奥平信昌も戦陣に加わっているんですが、信昌は家康の一ノ姫を娶っている婿であり、羽黒に進出してきている森長可が犬山城を占拠した池田恒興の娘婿であった為、家康は信昌に「池田が如き婿に、この家康の婿が負けてはならぬぞ」なんて、発破をかけたって話もあります。
 
 羽黒に陣取る森勢に酒井勢は奇襲気味に襲いかかり、鬼武蔵と呼ばれるくらいの猛将、森長可でしたが支えきれず犬山城へ敗走します。
 このことにより、紀州雑賀の反乱で大阪に留まっていた秀吉も遂に動かざるを得ず、大軍を率いて大阪を出ます。
 しかし、羽黒での敗戦は思いのほか手痛く、池田勢が初戦の敗退で犬山城に引き篭っているうちに、家康は小牧山城を要塞化してしまうんですね。
 負けず嫌いな秀吉は、この場での戦の不利を感じながらも羽黒よりさらに小牧山城に近い、楽田という場所にこちらも砦や土塁を築いて長対陣の構えとなります。
 
 紀州騒擾のこともあり、長対陣が続くと大軍を率いている秀吉の方が不利なので、それを打開する為に「三州中入り」と言う作戦行動を秀吉側が起します。
 これは、兵数的に余裕のある秀吉側が、別働隊を家康の本拠地である三河岡崎を攻めこむという作戦です。
 別働隊の編成は、総大将に秀吉の養子である羽柴秀次。目付に"名人久太郎"というカッコいいニックネームをもつ堀秀政。
 主力が犬山城を取って、今戦の先陣となっている池田恒興親子と先の羽黒の敗戦の汚名返上に燃える森長可です。
 兵数は、池田勢が6000人、森勢が3000人、堀勢が3000人、羽柴勢が8000人と約2万人の大軍で、これだけで家康の総勢を上まわっています。
 
 そして、この中入り部隊が出発した4月6日夜から4月9日の長久手の戦いまでが、後に振り返ると秀吉と家康の一生を左右したほどの戦いとなります。
 
 6日夜に発した別働隊の情報を、翌7日に徳川方はつかみます。
 そして、すぐさま家康は追う決意をして、兵を率いて8日に小幡城に入り陣立てをします。
 先鋒に榊原康政、大須賀康高ら4500人に命じ、羽柴秀次本隊を追わせ、自らは別働隊の先鋒、池田・森勢と堀・羽柴勢の間に入るように兵を進めるのです。
 
 白林山と言うところで休憩していた羽柴隊に追いついた榊原・大須賀隊は一気に奇襲をかけ、倍数近い8000人の兵を蹴散らすとそのままの勢いで、桧ヶ根というところですでに本隊の敗報を受け、待ち受けていた堀秀政隊に突っ込みますが、さすがにこれは先程の奇襲のようにはいかず、秀政にあしらわれてしまいます。
 ただ秀政もこのままここに対陣することに意味はないと見切って、そこで楽田へと退却していきます。
 ちなみにこの時の徳川方先鋒、榊原康政・大須賀康高もこれもまた婿と舅だったりします。
 
 そして、徳川本隊と別働隊の本隊とも言える池田・森隊の方はどうなったかというと、両者ほぼ同数の9000対9000のガチンコ勝負となり、死闘は2時間あまり繰り広げられたが、森長可が銃弾に倒れた時を境に一気に徳川有利となり、池田親子(恒興・元助)も討ち取られて、池田勢は四散し、徳川方の勝利となったわけです。
 この時、池田恒興を討ち取ったのが永井直勝で、池田元助を討ち取ったのが安藤直次なんですが、この両名の後の活躍を知っている人には胸熱のデビュー戦であります。
 永井直勝・安藤直次は、この後に家康の幕下に置かれ、次世代の俊秀として育てられていくからです。
 
 
 この長久手の戦いが行われている時に秀吉本隊はどうしていたかというと小牧山城に威力偵察を行ない敗走させられ、白林山の敗報から兵を率いて出撃すると本多忠勝率いる500人の兵に邪魔され、長久手の戦いには間に合わず、戦場近くに着いた頃には家康はすでに小幡城→小牧山城と引き上げてしまって、空振りに終わるという散々な目にあっています。
 この駆け引きの上手さに秀吉も家康を認め、この後は戦場を家康のいない伊勢へと移し、後の講和へとなっていくのです。
 
 
 ちなみにこの長久手の戦いを起こした三州中入りという作戦の発案は、長く池田恒興の案とされてきましたが、近年は秀吉の発案であるという論調が強くなってます。
 負けた為に後の秀吉の不敗神話に傷がつくということで改竄されていたのでしょう。
 ただこの作戦は、前年の賤ヶ岳の戦いに比べ、秀吉の案としては稚拙さが目立っているのも秀吉案ではないとされてきた一因でもあるのかなと思います。
 これを上手くいなした家康と誘い込まれて守備陣を破錠させた佐久間盛政との将としての器の差かも知れませんけどね。
 
 
 まあ、この後の蟹江城合戦なんかの駆け引きも面白いのですが、長くもなったし、今日はこの辺でやめておきましょう。
 
 
 
 
 名城コレクションは、高知城です。
 またつまらないです。
 城としては素晴らしくても、戦った経験のない城は面白くないのです。
 
 
 
 
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